久しぶりの遠出~佐賀

良心的で妥当な宿泊費

 中国人観光団体客のキャンセルが相次いでいるというニュースを耳にし,久しぶりに夫婦で遠出をしました。何よりありがたかったのは,一日の宿泊費が二人で六千円と,前回の半分以下に抑えられたことです。浮いたお金で「呼子のイカ」や「佐賀牛」,「熊本の馬肉」など,地元ならではの食材を堪能し,観光地も以前のような人混みはなく,落ち着いて巡ることができました。

 まず訪れたのは,妻が生まれて五歳まで暮らしていた佐世保の家です。住所と古い写真を手がかりに,当時とほとんど変わらぬ景色をすぐに見つけることができました。あいにく留守でしたが,隣家のご主人から話を伺うことができ,義父母が佐世保に約十年住み,「妻の第二の故郷」のような場所であったことを改めて実感しました。日宇駅近くのプラットホームに立った妻は,「ここの景色は覚えている」と懐かしそうでした。妻には具体的な行先を告げないミステリーツアー。60年以上の歳月と薄れた記憶が蘇る不思議さを感じる旅となりました。

佐世保の海軍基地

 佐世保は「自衛隊と米軍でもっている街だ」とよく言われます。実際のところ,佐世保市の一般会計と自衛隊や米軍によるいわゆる特需を比較すると確かに財政は潤っているようです。佐世保は鎮守府(明治期の旧日本海軍の軍港)開庁以来,防衛拠点として長い歴史を持つ都市です。その点では沖縄と共通する部分も多く,基地からの脱却が簡単ではない現実もあるように思われます。

 ところで,私は現職中,修学旅行の引率や研修などで沖縄を三度訪れる機会がありました。その際,街のあちこちで「基地反対」と書かれた看板を目にしました。ここ佐世保も同じような状況なのだろうと思い,市内を車で走ってみましたが,沖縄で見たような看板はほとんど見かけませんでした。この違いは,両地域が歩んできた歴史や,基地と地域社会との関係性の差によるものなのかもしれません。

義父のカメラ趣味

 朝鮮戦争やベトナム戦争の頃,佐世保は横須賀や大阪と共に,米軍や自衛隊による特需で大いに賑わっていたと聞きます。当時は新しくカメラ店がいくつもできたそうです。その中の一つが,後に全国的に知られることになるジャパネット高田の前身,「カメラのたかた」だったと聞きました。

 趣味がなかった義父も,職場の同僚たちの影響を受けてカメラに夢中になったのです。休日になるとカメラを手にし,家族の写真をよく撮ってくれていたそうです。子どもの頃の妻も,父親に何度もシャッターを切ってもらった記憶があると話していました。ここにある写真は,そんな時代に撮影された一枚です。基地の存在とともにあった佐世保の街の記憶,そして幼い妻の日常が重なり合った,ささやかな一時代を映す貴重な記録だと思いました。

※写真①(1歳の頃)

流通革命とシャッター商店街

 隣のご主人にあの有名なジャパネット高田の本社が,すぐそばにあることも教えていただきました。(後で調べると直線距離で約600メートルでした)ジャパネット高田といえば,日本にテレビショッピングという新たな流通の形を定着させ,いわば「流通革命」を起こした人物として知られています。日本の経済史に名を残す経済人の一人と言っていいのでしょう。

 特筆すべきは,故郷である佐世保市日宇町に一貫して店を構え続け,地元に多大な貢献をしてきている点です。それゆえに,地元の人々から深く敬愛されている人物だと聞きました。私もテレビショッピングは何度となく利用していますが,本社が佐世保にありそこから放送していることを知った時は驚きました。世の中の経済活動の仕組みが変化し,格段に便利になりました。誰もが欲しい商品を手軽に,しかも安く購入できるようになったことは,多くの人にとって大きな恩恵であったことは間違いありません。

・ 佐世保のジャパネット高田の本社

 しかしその一方で,大規模量販店の登場やテレビショッピングをはじめとする流通革命によって,地方の小さな商店街が姿を消していったのもまた事実です。日宇町も同じように商店街が無くなったようです。

小さな商店街の原風景

 私たちが子どもの頃,通学路には必ず顔なじみの商店があり,店先から声をかけられながら学校に通っていました。おばちゃんたちは「〇〇ちゃん,いってらっしゃい」と名前で呼んでくれましたが,年配の爺ちゃん店主に至っては呼び捨てでした。中学生になるとそれがいやで,わざわざ違う道を通っていたことも,今では懐かしい思い出です。

 また,我が家でも急な来客や遠くの親戚が泊まりに来ると,焼酎や醤油の空き瓶を持って行き,焼酎は3~5合の計り売りで支払いは掛売りでした。

 こうした小さな商店街の風景は,誰の記憶の片隅にも残っている,「日本の原風景」の一つではないでしょうか。ところが今では,隣に住んでいる人の顔や名前さえ知らないことも珍しくありません。日本の田舎から小さな商店街が消えていくのと同時に,「良き隣人との付き合いもまた失われていった」それもまた,時代の流れと共に,この流通革命がもたらした一つの側面なのかもしれません。

佐世保は戦争の証人

 以前のブログでも紹介しましたが,昭和20年4月8日,義父は戦艦大和の護衛駆逐艦「涼月」と共に激しい航空攻撃にさらされる中,坊津沖から佐世保へとまさに命からがらの奇跡的な帰還を果たしたのです。しばらく佐世保に滞在し復興作業をしていた義父たちは,高台での作業中に長崎原爆の閃光ときのこ雲を目撃したことを話してくれたことがあります。その場所から爆心地までは直線で約46キロの距離でした。長崎原爆のきのこ雲は高さ約1万5000メートルに達し,気象条件等が合えば,理論上は437キロ以上先まで見えるはずです。当時,60㎞以上離れた佐賀や天草・熊本からの目撃記録も残っています。

・針尾無線塔

 また,佐世保から長崎を結ぶ線上は主に佐世保湾や大村湾を通り,遮る山が少なかったから,視認できたのでしょう。さらにその線上の途中には,佐世保・針尾無線塔があり,開戦の「新高山登レ1208」と終戦の「天皇による戦闘停止命令」も伝えたそうです。佐世保の地は,開戦から終戦までを刻み続けた歴史の「証人」だったのですね。

 隣家のご主人に,妻が一歳の頃の買い物籠を手にした姿が写っている一枚の古い写真(写真①)を見せると,その場所は駅前だったと教えてくださいました。さらに,かつて佐世保市と合併する以前には,この地域には多くの商店街が立ち並び,活気にあふれていたという話も聞かせてくださいました。妻もまた,その話を聞きながら,遠い記憶が蘇ったように,かつて住んでいた家の隣近所には雑貨屋があり,店内には「所狭し」と茶碗やお皿が並べられていたと回想し始めました。 

佐世保と日宇の地名由来

 佐世保という地名の由来は,佐世保川沿いに見られる狭い川瀬を意味する「狭瀬(させ)」と,中世荘園の小区分である「保」を組み合わせた説が,最も有力のようです。「保」は律令法における「保証の保」にも通じ,川沿いに集落が点在する地形的特徴を反映した地名であったと考えられます。

 一方,日宇町は,佐世保市以前は旧日宇村にあたり,その名は日宇川河口の干潟地形に由来するといわれています。すなわち,干潮時に海が干上がる様子を表す干海(ひうみ)」が転じて「日宇」となったとされ,海と人々の暮らしが密接に結びついていた土地の記憶を今に伝えています。

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