(1) 矢筈岳「母ちゃん山」と諸正岳「父ちゃん山」,中の山が「子ども山」
近年,鹿児島市からも近く,初心者でも登り安い登山ファンが多い里山です。隣の矢筈岳は円錐状(飯を盛った様なおわん型の山~母ちゃん山)のきれいな山で、諸正岳はなだらかな丘状です。300m程度の低い山で,しかも山の麓が凡そ150mですので実際登るのは半分程度です。
二つの山は、林道を挟んだ所に位置していて、地域の方は諸正岳のことを「上の丘・父ちゃん山」、矢筈岳のことを「下の丘・母ちゃん山」その間の小さな丘を「子ども山」と呼ぶそうです。
山頂付近には山名の由来となっている諸正集落の山神が祀られています。また近くには鬼伝説の鬼が踏ん張った足跡に水が溜まったと伝わる池にも「上池(かんのいけ)」「下池(しもんいけ)」とここでも上・下を着けています。一つにはこの地は高所にあり,昔から水争いが多く集落単位で水利を分けていたのかもしれません。
(2) お狩場と狩集
狩集とは江戸期に鹿狩り等の狩場から生まれた地名。伊集院町飯牟礼の古民家レストラン麻里花近くの字名が「狩集」です。江戸期に,日置島津氏が自分の領地と交換し狩場になったそうです。狩りになると,近くの農民たちが駆り出され,この地から矢筈岳の麓を通り,諸正岳近くまで猪・狸・鹿・兎・雉を追い立て,獣の動きが良く見える高い場所(諸正岳麓)で待つ,殿様の鷹狩や武士団の弓,鉄砲の調練場として使っていました。矢筈岳を下の丘,諸正岳を上の丘と言っていたのはこの期の名残りである可能性がもあります。他にも下山や下り山,谷ノ口などの地名が残っています。
(3) 日置島津氏(お狩場)
日置島津氏とは貴久の3男で,「金吾様」の愛称で親しまれている歳久が初代に当たります。豊臣秀吉の逆鱗に触れ自害させられましたが,孫の代に日吉地域北部を領有し日置島津家を興しました。1724年,7代久健の時,この地の地形を気に入り地理的にも近い飯牟礼村と知覧郷西別府の領有地と取り替えてほしいと藩に願い出たところ,許可され飯牟礼村は日置島津氏の領地となりました。その時,家来も移され,飯牟礼や古城は日置島津氏の狩場になり,馬場は弓や鉄砲の調練場として使っていましたので,さつま芋の栽培など開墾が許されないまま幕末まで続きました。飯牟礼下に狩集の地名が残っていますが,鷹狩りで地元の勢子(獲物を追い出す農民)が借り出され集まった場所です。日置家当主や郷士たちは馬場(旧飯牟礼小学校跡地近く)に集まり,両方から挟み撃ちで狩りを行っていました。日置島津氏の菩提寺は日吉町の大乗寺(日置南洲窯横)になります。
(4) 諸正岳の由来「両方に連なる山」・「全て見通す神々しい山」「全て真砂土の丘」
・ 諸正と言う地名は全国的にも珍しいですが,諸は諸平(両面の坂道)などの地名によく使われます。「山岳名か集落名か」でも地名由来の解釈が異なってきます。「モ・ロ・マサ」なのか,「モロ・マサ」なのか,その他方言等による訛なのか,資料がなく謎です。そこで諸を糸口に解釈してみます。
・ 諸は辞書によると「諸手(両手・両方・双方),或いは多くの、すべての,一緒の」意味です。正は,正(神社か何かの位で正三位)・連(連なる)・勝(山)・允・真砂・庄などから「①両方に連なる山」の意味が考えられます。また,「マ(目)とサ(方向)」に分けると「②全て見通す神々しい山」となりますがどうでしょうか。
・ 真砂(マサ)~花崗岩が風化・分解してできた砂。砂混じりの粘土の固結した火山灰の俗称。諸真砂。地元では矢筈や諸正など安山岩質の山陵を飯牟礼岡と読んでいます。真砂土とは、風化した花崗岩が砂状になった土のことを言います。「③全て真砂土の丘」
・ 下の地図は,明治期の伊集院村の土地台帳図面に記載されていた飯牟礼地区の小字名です。今ではほとんど使われませんが,住居表示や基本台帳から大字(おおあざ)の表記が無くなる昭和中期頃までは,「伊集院町大字飯牟礼字狩集」の様に郵便物に字名を付けていました。
農免道路をはじめ主な道を記載しましたが,道路や耕地の拡張工事で境が明確でありませんが,古い図面を元に整理してみました。飯牟礼地区・古城地区・恋之原地区の191の小字があります。字(あざ)とは,住民を自治単位で細分した区画名のことです。鎌倉期の荘園文書や秀吉の太閤検地,江戸初期に作られた字名を引き継いだものが多く,明治期の地租改正事業で土地所有者を土地台帳に登録する際に採用されました。