観光地のオーバーツーリズム対策
朝ドラ『あんぱん』の放送が終了し,来館者も少し落ち着いた頃合いを見計らって,今回初めてアンパンマンミュージアムを訪れました。平日だったこともあり,館内は比較的ゆったりとしており,展示や雰囲気を落ち着いて楽しむことができました。

・アンパンマンミュージアム
普段は子ども連れの若い家族や海外からの観光客が多く,入場制限がかかることもあるそうです。また,事前予約がなければ入館できない日もあると聞き,人気の高さを実感しました。近年観光地で,遠方から訪れても予約がなければ入れないというケースが増えているように感じます。いわゆるオーバーツーリズムへの対策なのでしょうが,日頃からインターネットでこまめに確認する習慣のない年代にとっては,やや戸惑いを覚えます。
もちろん,安全面や混雑緩和など様々な事情から苦肉の策として予約制が導入されたのでしょう。施設側が多くの要望や苦情に対応した結果,現在の体制に至ったのだと思います。
それでもなお,予約がなくても当日並べば入館できる選択肢を,ある程度残しておいてほしいとも感じました。たとえ2~3時間並ぶことになったとしても,それでも見たいと望む人の機会まで閉ざしてしまうのは,いかがなものでしょうか。遠方から時間と労力をかけて訪れたにもかかわらず,門前で入館を断られるとすれば,やはり残念な思いは否めません。

・アンパンマンミュージアム
今回は幸いにも中国からの団体客が減ったことから,落ち着いた雰囲気の中で見学することができたようです。混雑対策と来館者の思い,その両立の難しさがあるのでしょうが,多くの人にとって開かれた場所であり続けて欲しいと願っています。
高齢の来館者
この日は幸いにもすぐに入館することができましたが,駐車場で初めて予約制を知り,「ええ入れないの」と驚いた様子の高齢の夫婦の姿も見かけました。車のナンバーを見ると,レンタカーや西日本各地からの来訪者が多いようで,東京など遠方からの旅行者もいました。
特に印象的だったのは,私たちと同世代と思われる高齢の来館者が5,6組ほどいたことでした。おそらく,テレビアニメ『それいけ!アンパンマン』が放送されていた頃,子育ての真っただ中にあり,幼いわが子とともに番組を楽しんだ世代なのでしょう。70歳前後の人々にとって,子ども時代は日本のアニメが大きく発展した時代であり,アンパンマンはその後の子育て期を象徴する存在でもあったはずです。

・アンパンマンミュージアム
館内を巡りながら展示物を見つめる同世代の方々のまなざしには,当時の思い出が静かに重なっているように感じられました。それぞれが家族と過ごした時間を胸に抱きながら,この場所を味わっていたのではないでしょうか。
アンパンマンの玩具
わが家の子育てとアンパンマンの思い出については,これまで「たっすいがーはいかん」(25・9・15),「朝ドラあんぱん崇との再会」(25・7・5)など,折に触れて投稿してきました。なかでも「朝ドラあんぱんと戦争描写」(25・6・30)の中で,「わが家のアンパンマン」と題し,「マイクのついたアンパンマンのおしゃべり人形」を取り上げたことがあります。
その人形が,今回訪れた館内のアンパンマン商品化のコーナーに展示されているのを,妻が見つけて知らせてくれました。久しぶりに目にしたその姿は,記憶の中のままの愛らしさで,思わず二人で顔を見合わせ,「ああ,これだった」と叫びました。

・おしゃべりアンパンマン
小さな玩具に過ぎないのですが,そこには当時の暮らしや子どもの笑顔が折り重なっています。展示ケースの向こうにある人形を見つめながら,わが家の子育ての奮闘の日々が,静かに蘇ってきました。
アンパンマンを作った故郷
その後,アンパンミュージアムから少し離れた柳瀬崇と妻暢のお墓があると言う「やなせたかし朴の木公園」を訪れました。
| 夏になると僕らは,父の田舎へ行った。祖母が一人で百姓をしていた。祖母はどうしても町へは出なかった。もし私がここを離れたら,誰がお墓を守るのか,死んだものが寂しがる,祖母はそう言った。僕らは谷間へ水泳に行った。川は恐ろしく青く広かった。川原には,僕たち二人の他,誰もいなかった。あの頃,蝉しぐれが降るようだった。白い真夏の河原よ,僕らは魚を取ったり,泳いだりした。弟はまだ泳げなくて,浅いところでピチャピチャやっていた。 あぁ,あの頃の弟の一生懸命な顔よ,僕の泳ぐのを羨ましそうに見ていた弟よ。大人になってから,僕は昔の川へ行ってみた。川は青く流れていたが,ほんの狭いちっちゃな川だった。僕はあの頃,世界中で一番大きな川だと思っていたのに,向こう岸へ泳ぎ着いた時は,太平洋横断したような気がしていたのに。 |
・朴の木公園の石碑の碑文より
やなせたかしの故郷,香美市香北町は,かつて在所村と呼ばれていました。この地は,父・清氏と母・登喜子さんの故郷であり,アンパンゆかりの地なのです。
九州や四国の山間部には平家の落人伝説が数多く残されていますが,この地名の由来にも,そうした伝承が関わっているのでしょう。恐竜の島で有名な天草市の御所浦町は,景行天皇の巡幸時に行宮が置かれたという伝説が残っています。「御所」とは,もともと天皇など高貴な身分の方の邸宅を指す言葉であり,同様の地名は全国各地に見られます。

・物部川に架かる吊り橋~兄弟で遊んだ川
やなせ家の先祖は,この地の元庄屋につながる家柄であったようです。物部川を挟み,両岸の山の尾根がなだらかに落ち込む風景は,まさに日本の原風景ともいえるたたずまいです。案内板によれば,柳瀬家はこの一帯の山の中腹に点在していたそうです。

・ホオノキ
そして,この地にやなせたかしご夫妻が眠っています。切り立つような山並から青空を見上げると,御在所山の彼方からアンパンに乗った安徳天皇の御子(落人伝説)が舞い降りてくる,そんな空想さえ浮かんできます。この地で幼い頃遊んだ経験が彼の想像力の源になったのでしょう。歴史と伝説,そして創作の世界が重なり合う,味わい深い土地でした。

・やなせたかし朴の木公園
崇と暢の生涯
「アンパンマン」の生みの親として知られる「やなせたかし」(柳瀬 崇)氏の生涯をたどると,幼少期から幾度もの転居による環境の変化に個性や創造性が形成されたのだろうと思います。少年時代は東京や故郷・在所村で過ごしていますが,父の死をきっかけに高知市へ移り住み,高知市追手筋に転居し,高知城近くの追手前小学校へ入学しています。しかし,小学二年生のときに母の再婚によって,今度は弟のいる柳瀬医院に預けられ,後免野田小学校へ編入,そのまま卒業することになりました。

・追手前小学校と現・はりまや橋小学校
その後は県立城東中学校(追手前高校)へ進学し,さらに東京高等工芸学校(千葉大学)へと進まれました。幼くして父を失い,住まいや学校が変わるという辛い経験を重ねなが,歩んできた姿がうかがえます。

・後免野田小学校(左)と県立城東中学校(追手前高校)
一方,妻の「小松 暢(のぶ)」もまた,6歳のときに大阪で父を亡くし,高知へ戻っています。そして高知城近くの高知大学付属小学校に入学しました。二人は共に幼い時に父を亡くすという境遇を抱えて同じ高知市内で,しかも城のほど近くの学校に通っていたのです。もしかすると,城下町のどこかで,すれ違っていたことがあったのかもしれません。

・高知城
その後,崇氏と暢氏が初めて出会ったのは同じく高知城近くの高知新聞社だったそうです。なお,朝の連続テレビ小説あんぱんでは二人は同級生という設定ですが,実際には戦後,高知新聞社に勤めてからの出会いでした。
少年・少女時代には交わることのなかった二人の人生が,同じ城下町の空の下で通り過ぎ,やがて出会いへとつながっていきました。そのように考えると,不思議な運命の巡り合わせを感じさせられます。
朝ドラあんぱん
朝ドラ「あんぱん」を,さまざまな想い出と重ね合わせながら見ました。放送が終わって,いわゆる“アンパンマンロス”のような気持ちにもなりましたが,その余韻もまた温かいものでした。
今回の旅は,かねてより一度は訪れたいと願っていた場所へのものでしたので,私たちにとって大変意義深いものとなりました。アンパンマンの物語は,テレビでアニメ放送が始まる以前,絵本として親しまれていた時代から,私たち夫婦にとって特別な存在でした。私は小学校の子どもたちに(課題の与え方によっては高学年の教材にもなります),妻は幼稚園児に読み聞かせを通してその世界を子どもたちに伝えました。子どもたちが静かに聞きながら輝くまなざしは,今でも鮮明に思い出します。

・崇の絵本
さらにこの物語は,長女や長男も好きでしたので,二人の成長と共に,わが家の大切な思い出でもありました。子どもたちが笑い,時に勇気づけられながら物語の世界に親しんでいく姿は,親としての子育ての歩みとも重なっています。
今回訪れたミュージアムでは,私たちと同年代と思われる多くの夫婦の姿が見受けられました。展示を前に静かに微笑み合う様子から,それぞれの家庭にもまた,アンパンマンと共に歩んだ歳月があるのではないかと感じられました。同じ時代を生き,同じ物語に励まされてきた仲間のような,ささやかな親近感も覚えました。
この物語は世代を超えて受け継がれますが,とりわけ私たち夫婦にとって,教育の現場での記憶と共に子育ての日々の記憶とを結びつけるかけがえのない作品です。今回の旅は,その大切な想い出をあらためて確かめる,豊かで楽しい一時となりました。
ちょいとブレイク

ハチキン
私は,土佐藩初代藩主の山内一豊とその妻・千代(まつ)の物語が好きです。とりわけ,内助の功によって一豊の出世を支えた千代は,賢妻の代名詞として今なお語り継がれています。戦国という不安定な時代にあって,武将を陰で支え続けたその覚悟と知恵に,深くひかれてきました。
3年前に高知城を訪れた際,城内に立つ千代の銅像の前で,思わず足を止めました。もし彼女が現代に生きていたなら,どのような女性になっていただろうかと,ふとそんな思いが頭をかすめたからです。

同時に,何故か私の中で暢と千代の姿が重なるのです。「内助の功」という言葉だけでは語り尽くせない,参謀のような立場で伴侶を支えたように思えるからです。土佐の「ハチキン」とも言われ芯の強さも,どこか通じ合うものがあるように思われます。
さらに,柳瀬崇と暢はともに高知市内の尋常小学校に入学しています。学校は別々ですが,学び舎はいずれも山内一豊が築城した高知城から数百メートルと近くにあり,同じ城下町の中で育っています。どこかで出会っていたかもしれませんね。歴史上の人物に思いを馳せるとき,そこには生き方への示唆があります。暢と千代の人生は,時代を超えて私たちに問いかけているようです。
