・ 鹿児島高校横の城西公園に薬師堂がありました。その小堂の由来板に「薬師町前原宅のざくろの木の下から掘り出された薬師様を祭ってある」と記述があります。お堂の横に浮き彫りで彫られた六地蔵塔があります。島津斉彬の夭折した哲丸の死を悼んで供養のため建てられたそうです。宝篋印塔でなく六地蔵塔の形式になったのは,当時の関係者が毒殺説や呪殺説を信じていたからでしょうか。
・ 現在,お堂は壊されて更地になっていますが,六地蔵塔だけは残っています。子どもの頃からの遊び場で,六月灯や薬師如来の夏祭り,地域の集いなど思い出多き場所です。このお堂の前に川幅4m程度の原良川が流れていて川魚を取ったり,水遊びをしたりしていました。遠くの橋を渡るのが面倒くさくて,川に何カ所も架かっていた水道管の上を歩いて渡っていました。その後,原良(明和)団地の造成が始まり,大雨が降るたびに造成地から流れ出た軽石(シラス)で川が埋まり渡ることができました。たまに薄い所では川底に落ち込み,友人に引っ張り上げてもらうこともありました。川沿いには2~30センチのコンクリートブロックが設置され,雨が降るとブロック間を木の板で塞ぎ(ブロックの両側に板をはめる切れ込みがあった),シラスが家屋に流れ込まない様にしていました。昔の大規模工事は意外といい加減だったのでしょうか,今では考えられませんね。
・ 撤去され更地になった薬師堂
・ 薬師町の由来について、木脇栄氏の『かごしま市史こぼればなし』によると「島津家の別殿の所在地で、現在の有川家附近に薬草苑があり、この苑内に薬師様が祭ってあった。今も薬師様奉祀の小堂が町内にあり、薬師町の町名はこれによる」と記されています。市内の古い地図によると石井手用水より南東地区に当たる薬師や原良には田圃が広がっており,有川氏宅は鶴丸高校北側の薬師二丁目か同じく東側の薬師一丁目(照国高校跡)に二カ所該当する箇所がありますが,はたしてどちらでしょうか。
・島津哲丸の供養六地蔵塔
・ 原良川の左岸は桜,右岸はしだれ柳で,温泉も原良温泉と薬師温泉の間にもう一つ(温泉名は忘れたが)あり,冬場は川から湯煙が上がり,温泉街のような風情があり住民に親しまれていました。車道の幅が狭く,特にバス同士が離合するときは,運転手がお互い窓から首を出し確認しながら,徐行運転をしていました。城西通りとの交差点(ツタヤ前)は交通量が多くいつも渋滞していました。昭和49年に掛越(かけごし)から新上橋までの約1キロ河川の暗渠化工事を行い,昭和54年8月に完成現在の広い道路になり,渋滞も解消しました。