(1) 中馬大蔵について
・ 中馬大蔵は市来に生まれた郷士でしたが,出水の野間の関所(米ノ津港の東側)から笠山(阿久根市と出水市の境の山)までの海岸の取締役となりました。朝鮮の役・関ケ原合戦などで義弘公の危機を幾度も助け,義弘公からの信頼の厚い家臣でした。また,ぼっけもんとしても有名で,年貢米を強奪する罪を犯し蟄居させられていた時でさえ,義弘公は彼を庇い、その問題行動を許しました。そればかりか年末に義弘公から密かに米2俵が送られてきていたそうです。大蔵は,1635年,阿久根の瀬之浦で72才の生涯を終えました。
・阿久根市脇元にある大蔵の墓
中馬大蔵で思い出すのが,私が小学6年生のとき友人(大蔵の子孫と聞いていた)の家で遊んでいた時の話。その日,音楽の先生から西郷さんの話を聞き,わらべ歌を教えてもらいました。二人で西郷さんの替え歌を大声で歌っていると,当時かなり高齢の友人の祖母或いは曾祖母が,突然「私の前で西郷の歌を歌うな」と怒鳴られたことがあり驚きました。その時,鹿児島でも西郷さんを嫌いな人がいることを初めて知ったのです。その夜,友人の母がわざわざ家までやってきて母に事情を話してくれたそうです。西南戦争でその高齢の方の祖父が西郷軍に参加していた従弟に惨い殺され方をし,その後従弟方との関係が悪化(絶縁)したそうです。※薩摩出身の政府軍に惨殺された逆の話も残っていますが…。
(2) 中馬大蔵の墓について
・本来の墓は白っぽい小さな墓石の部分で,子孫が自然石を継ぎ足し大きくしたそうです。
(3) 鹿児島での西郷びいきについて
・ 確かに鹿児島は西南戦争で親子や親せき同志で殺し合いをし,そのことが国際赤十字の加盟拒否にあった話は有名です。それにしても,鹿児島での政府軍にいた薩摩出身者の評価は,何故ここまで低いのでしょうか。あの大久保利通でさえ銅像ができたのは昭和54年で,大きな反対運動が巻き上がったほどです。第2代の総理大臣,黒田清隆にいたっては誕生地の案内板(甲東中近く)が建ったのですらつい最近の話なのです。一方,上野に西郷銅像が出来たのが明治31年で,鹿児島の銅像は昭和12年です。西郷びいきの鹿児島にあって,このように批判する人もいるのだと小学生の頃,不思議に思っていました。
・黒田清隆(内閣総理大臣)薩摩島津古写真集より
・西南戦争の悲話
○ 鹿児島市の歴史を語るとき西南戦争の悲話は多く,色々な実例が伝わっています。親子や兄弟,親戚が敵味方になり戦ったわけですので当然です。伊敷地区でも首なし塚や母親の割腹事件の話など多く,親族の恨みから解き放され人々が安心して眠ることができたのはようやく第1次世界大戦が始まってからだと言われます。官軍対賊軍の戦いは言わば薩摩人同士の戦いだったわけです。
西南戦争が鹿児島を中心に勃発した大きな要因の一つに,武士階級の比率が他藩と比べ突出していたことがあげられます。歴史で「もし」を言ったらいけないことは重々分かっていますが…。もし,薩軍の士族がもっと多く政府の要職に留まっていたら…。もし,西郷どんが海外視察に行き,大久保さんが政府の留守を守っていたら…。もし西郷どんが鹿児島に下野しなかったら…(ないごて鹿児島に帰っとよ,いけんなっか分かっちょどが…ある政府高官の呟き)。もし…たら明治の歴史はどのように変わっていたのでしょうか。
西南戦争は九州か山口の別の場所で起き,名前も「明治西部戦争(?)」になっていた可能性も考えられます。当然薩摩の武士たちの一部も含まれますが,全国の不満武士たちが何処かに結集して京を目指していたのでしょうか。少なくとも鹿児島が主戦場になることもなく,薩摩の有能な人材を失うことも少なく,総理大臣が後2~3名増えたかもしれません。何より,親子間,親族間の争いも少なかったことでしょうね。西南戦争で投降した薩軍が2700人おり,東北地方の開拓などに従事した記録があるそうです。明治政府に残った勝ち組だけでなく,負け組の薩摩の賊軍も全国の礎を築いたのです。
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