西南戦争政府軍の首なし塚【R5】10月7号

・ 8・6水害の際、私は小野公園近くの小野石の石切り場跡の下に住んでいました。豪雨が降ると、幸加木川がゴーゴーと轟き、まるで地鳴りのようで緊張した記憶があります。しかし、この地域は地盤が堅固で、8・6水害でもほとんど被害がありませんでした。 隣に住んでいた大正生まれの元警察官、Мさんによれば、「ここの裏山には西南戦争の時の政府軍三名の首なし塚があります。 幸加木川で薩摩軍に首を刎ねられ、胴体だけを地元民が山に埋葬した墓だそうです。」とのことでした。この話を思い出し、先日久しぶりに訪ねてみましたが、裏山の石切り場は改修されコンクリートで覆われ、近隣の住宅地も大きく変わっていました。地元の公民館の方にお聞きしましたが、首なし塚の話は聞いたことがないとのことで、代わりに石切り場で働いていた関係者の墓だという場所に案内していただきました。山の斜面はフェンスで囲まれており、入ることはできませんでした。

・石切り場関係者の墓

・ 西南戦争の薩摩軍の戦死者は南洲墓地に手厚く埋葬されています。しかし、官軍(多くの薩摩人を含む)の墓地は祇園之洲(1,270人)と岩川官軍墓地(80人)の二カ所しか存在していません。大きな激戦地である城山などだけでなく、伊敷地区でも数名の戦死者が出たとされています。墓は見当たらず、記録にも残っていませんが、この地域の高齢者の証言によれば、「幸加木川沿いで小さな戦闘」があった可能性もあるのではないでしょうか。

・西南戦争の将兵を弔う慰霊塔 鹿児島市祇園之洲

・ 碑文 明治南九州三県の各地で展開された西南の役(1877)は九月薩摩の城山における最後の決戦により激しい終盤戦を迎えた。不幸 戦争中鹿児島で倒れた官軍戦没者は 戦後 遥か前方に雄大なる桜島を眺め近く波静かな錦江湾の潮騒を聞く この景勝の地に葬られたのち明治五年の天皇鹿児島御巡幸の供奉員や鎮台第二分営(鹿児島分営)の病死者も 共にこの地に改葬され 合わせて千二百余の英霊が鎮まることとなった 以来星霜を経ること百年 その間墓碑の破損荒廃甚しく特に第二次大戦後は墓地管理の責任は不明確となり 官修墓地とは名のみとなった ここに鹿児島市はこれを放置するにしのびず 昭和三十年地下納骨堂を建立した 西南の役百年を迎えたいま近代日本建設の尊いいしずえとなった戦没者のみたまえを慰め新しい平和日本建設の象徴とするにふさわしい慰霊塔の建立を との願いが高まり貴重な市民の浄財をも合わせてその資とし ここに完工をみた とこしえに みたまの安らかなることを祈るものである   昭和五十二年十一月(1977)

・ 西南の役・官軍戦没者の慰霊塔

□ 鹿児島県関係の官軍戦死者(37人)
・ 伊地知重武・井上金蔵・上原幸吉・江田政信・奥村仁次郎・大迫弘忠・小田為道・川上深・川北悌助・隈元宗一・小島兵一・小宮山武記・佐々木釜助・菅村理・染川重郎・田中圭二・田中純孝・津之地佐國・轟木純紀・永田清・永峰静衛・仁禮吉蔵・野間口正利・花田行政・日高實行・平原彌太郎・藤崎嘉次郎・増山常柱・水間良雄・森藤七郎・山内喜助・山下竹之助・山本信輝・山本吉蔵・吉田清房・四元孫兵衛・米比孝蔵 (官軍の薩摩兵)  ~出身不詳と続く~

・改修工事がなされた小野石の石切り場跡

・石切り場の墓

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