甑島の松木少将と大炊御門中将の墓《R5》12月8号

 甑島への初訪問は,県内一の甑大橋の完成により観光地としての人気が上昇し,旅行シーズンのフェリー予約が難しくなったため,冬場に訪れることとなりました。残念ながら,訪れた3日間は荒天に見舞われ,絶景ポイントからの美しい景色は楽しむことができませんでしたが,奇岩の迫力ある眺望には圧倒されました。まず,以前から訪れてみたかった松木少将と大炊御門中将の墓を探しました。

 江戸初期の1609年に起きた、朝廷の高官と天皇の寵愛を受けた5人の女官たちの淫行事件(猪熊侍従事件)は、強大な徳川政権の台頭や、戦国期を通して経済的に困窮した朝廷権力の凋落を示す出来事となりました。この事件に関わった14名(死罪2名,北海道・隠岐・伊豆諸島への遠島8名,硫黄島2,恩免2)の内,薩摩硫黄島の2人が藩主光久の配慮により近くの甑島に配流されることになったのです。

 この事件に関与したメンバーが如何に大物であったか。大炊御門中将が甑島に配流された後、その弟・経孝が大炊御門19代目を継ぎ,後に左大臣まで昇りつめたのです。なお、中将頼国の母は幕府高家の吉良家の出身であり、その五代後の人物が赤穂事件で知られる上野介でした。そんな大物の墓が里には二つも残っているのです。二人の墓は,朝廷のエリート高官にしては,みすぼらしい感じがしましたが,島流しされた者の墓とすれば致し方ないことなのでしょう。維持管理については島の人たちによって大切に保存されていました。

(1) 史跡松木少将の墓の案内板より
 中御門・松木宗信少将(宗隆)は,天正6年(1578)生まれ,19才で從五位下侍従公家として 後陽成天皇の側近に仕えた。慶長14年(1609)7月4日32歳のとき猪熊(いのくま)侍従事件に連座する。 天皇は激怒されたそれをうけた幕府は花山院少将を松前(北海道)に流罪。兼康備後守成政とその妹讃岐は磔になる。大炊(おおい)中将と松木少将は薩摩の国鬼界島(硫黄島)に流されるところ、松木少将の親戚・飛鳥井家と島津家久の助力により、本土の見える島(甑島)に配流され大炊中将と共に里村に落ちついたという。 
 大炊中将(正三位藤原頼国)は四年後死去、その妻(平良の士梶原氏の娘は、二女を連れて松木少将と再婚し、(頼国の女子は里村本田親典に嫁した)二女一男を生む、男子小兵衛は松木氏を称した。少将は寛永5年8月22日没。明治の元勲の松木弘安(寺島宗則)はその直系である。墓は自然石で付近に少将川(井戸)がある。  ~薩摩川内市教育委員会~

※ ただし、松木19代宗信から数えて9代目宗保の養子(関ヶ原の一番首で名を馳せた長野勘左衛門の子孫に当たる)が、明治政府の外務卿・寺島宗則である資料があるため、直系には当たらない可能性も残ります。(後に伯父松木28代宗保の養子となり松木弘安と称し蘭学を学ぶ)長野勘左衛門は、義弘が秀吉に没収されていた出水五万石を加増されたとき、普請奉行として出水に移り、義弘の秘蔵っ子中馬大蔵は,同郷で大親友であった。
◇ 出水の松木27代宗諄の次男祐照は,日向伊東氏の流れをくむ長野氏の養子となりその子祐徳の弟が寺島宗則である。次男宗則は長野から脇本湾の寺島から名をとり寺島を称した。

(2) 大炊御門中将の墓
 左近衛権中将・大炊御門藤原頼国は四年後死去、その妻(平良の郷士梶原氏の娘は,二女を連れて松木少将と再婚し,(頼国の女子は里村本田親典に嫁した)二女一男を生む,男子小兵衛は松木氏を称した。少将は寛永五年八月二十二日没。明治の元勲の松木弘安(寺島宗則)はその直系である。墓は自然石で付近に少将川(井戸)がある。  ~薩摩川内市教育委員会~
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