伊敷地区の神社(1)【R5】7月7号

・ 伊敷町は島津氏に直属し,鹿児島近在二十カ村の一部で,伊敷町や犬迫町,小野町,小山田町,皆与志町などが含まれていた広い地域であった。千年団地や伊敷団地などもかつて島津氏の山で,由緒ある神社がいくつかあるので紹介したい。

伊邇色神社(いにしきじんじゃ)

 いにしき幼稚園近くの下伊敷2丁目の山裾に鎮座している。境内に日露戦役記念碑があり,末社も祀られている。境内は崖下にあり,かつては伊敷病院(妙谷寺跡)辺りの裏山にあった神食城(伴掾館)への大手門が通っていたそうだ。

・ 伊邇色入彦之命(いにしきいりひこのみこと)

・ 天兒屋根命(天の岩屋戸で祝詞を奏した日本神話の神)

・ 天美津玉照比売命(天児屋命の妻)

・ 建御雷神(大国主神に国譲りを成立させた雷神)

 祭神の由緒として,三代実録に薩摩國正六位上伊邇色神 授従五位下,書記に五十瓊敷入彦命,古事記に印色入日子命とあり,同一人物であるようだ。

 伊邇色神社の神額によると,十一代垂仁天皇(358年~370年頃)の第二皇子伊邇色入彦之命は天下を回って池塘を掘り,水を引き,開墾して農業の振興につとめられ,多くの民を救われたそうだ。その時の御在所であった当地に伊邇色入彦之命とその外の神々を御祭神として建てられたのが当社である。この地の地名も神社にあやかって伊邇色村と称した。後に伊邇色が訛って伊敷になったそうだ。

※ 伊敷町の地名も当社に因んだ町名と記されている。この地の地名も伊邇色を伊敷と訛ったのではと思われると記され,多くの書物に伊敷の地名由来として出ているのであるが……。

(1) 伊邇色が訛って伊敷の地名になったとあるが,転訛の場合,子音が「イ」であることから,残るのは「ニシキ」ではなかろうか。また,伴兼行が薩摩に下向して,この辺りを神食村(かみじき)と言い「かみじき」から伊敷と訛ったとの説も同じく無理があるのではないか。伊敷の地名由来には,郷土史家によって諸説提唱されている。屋敷地名,一色別納(島津荘か鹿児島神宮の別納地),古い時代の海岸線地名の敷からの転訛などである。

(2) 河川敷の開墾から「井」「敷」

 当時暴れ川だった甲突川や山崎川の流域は,氾濫すると川底となる荒れ地で,開墾が難しかった。伊邇色命が「塘を築き開墾した」と伝説が残るように,この地の人々にとって治水は大きな願いであった。井とは,本来,「井」の字形で,地下水を掘った井戸や川の流水をくみ取る枡状の水場のことである。また,山のわき水をためていた「山の井」から流れ出た水路も井水とも呼び,転じて「主に用水として利用していた川」を含むようになった。川沿いに土手を築き,河川敷の下を流れる伏流水を利用した井川を通して開墾したのではないか。あくまでも私見であるが,『井が伊に転訛する地名例は多く,「井敷」が「伊敷」になった』と考える。江戸時代に入り,甲突川の右岸に石井手用水を,左岸に長井田用水を通し,伊敷を肥沃な田園地帯にした先人の思いからも分かる。

諏訪神社(南方神社)

 全国的に多い諏訪神社,鹿児島では明治5年以降南方神社とも言った。島津氏は鹿児島五社の第一として「諏訪大明神」を勧請した際,祭神「建御名方命」を上社と称し左側に,「事代主命」を下社と称し右側に奉ったそうだ。

 三国名勝図会によると,諏訪大明神を勧請した由来は,初代忠久が副将として,東北征伐の途中,諏訪大明神に勝利祈願をしたら勝利し凱旋できたとしている。また,鎌倉幕府は,諏訪大社の祭祀役を,信濃国の御家人に輪番で勤めさせていた。当時,信濃太田荘(長野県北部)の地頭職になっていた島津忠久一門も太田荘地頭として勤仕していたとのことである。

 しかし,当時の武家社会の状況として,諏訪氏が鎌倉幕府の中枢,北条得宗家の被官となったことから,北条氏所領や全国の大名領地へ分布されるようになった。幕府も諏訪社の建御名方神は「風を司る神」,元寇を退かした風神,日本第一の軍神として認めているので当然島津氏も従うことになる。

 ところが,釣り好きの神と言われたことから七福神のえびす天と習合し,江戸時代に庶民に親しまれことで,幕末,廃仏毀釈の憂き目にあった。鹿児島でも神代三代の山陵決定の過程で,仏教色の強い事代主命の合祀が問題になり,建御名方(建南方)から南方神社が生まれるに至ったと言われている。

※ 南方の呼び方であるが,枕崎の南方神社は「ミナカタ」と呼んでいるが,県内では「ミナミカタ」の方が多い。江戸期に流行った説によると元来徳島の多祁御奈刀弥神社の神らしく建御名方(タテミナカタ)とは,「猛々しい(建)・御(ミ)・名方(ナカタ)の神」という意味で尊敬語の「御」まで読んで,「ミ・ナカタ」となったという。後に御名方に南方の字を充てたことで,南方を「ミナミカタ」と読み違えたとのこと。本来であれば「ミ」も読まず「ナカタ」の神であるはずだが…。

(1) 諏訪神社の新暦記念碑

 伊敷の諏訪神社の鎮座の地(伊敷団地下)は島津氏の山で,江戸期,通称山王様(日枝神社)で山の神だった。経緯は不明だが,明治初年に梅ヶ渕の諏訪神社を合祀している。鹿児島では明治5年以降,諏訪社祭神「事代主命」が仏教色の強い理由から外され,南方神社と名を変えていった。これも神仏習合の慣習を禁止した神仏分離令の一環であるが,明治39年の「一村一社令」の前に統合されたのもその一因か,信仰深いこの地の人たちにとって辛い出来事であっただろう。境内に,「日露戦役記念碑」,「陰暦廃弁記念碑(明治43年)」がある。忠魂碑は、戦死者の追悼のみならず、死を賛美することで国家への忠誠心を醸成しようとする意図が大きく,礼拝の強要など戦意高揚に利用されたそうだ。

陰暦廃弁記念碑

 県内でも珍しい陰暦廃弁記念碑(明治43年3月)           

⑤の月読神社が合祀している関係で暦関係の記念碑がある

(2)  御祭神

① 建御名方富命(タケミナカタトミミコト)「梅ヶ渕から諏訪神社が合祀」

② 大国主命(オオクニヌシノミコト)「元々日枝神社で山の神」

③ 天照皇大神(アマテラススメオオカミ)「神明神社が合祀」

④ 建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)「八坂・祇園神社が合祀」

⑤ 月読命(ツキヨミノミコト)「月読神社が合祀」

(3) 由緒

 現在地に月読神社、又梅ヶ渕に諏訪神社が有り,明治初年に両社を合祀し諏訪神社として現在に至っている。まず,主祭神の諏訪社 (①建御名方命)は梅ヶ渕から合祀された。また,日枝神社(②大山咋神・大国主命)は山の神を祭っているのでこの場所は適していた。

 この他,神明神社(③天照皇大神) や八坂・祇園神社(④建速須佐之男命)が合祀されている。最後に月読神社(⑤月読命)に農耕や月の神が祭られている。月読神社が「暦を司る神」であるとして,境内に「陰暦廃弁記念碑」が建立されたようである。明治5年,長い間,日本人の生活に密着し,親しまれていた旧暦を新暦に変えた。新政府は西洋化や財政上の問題から「旧暦を廃止し新暦を奉ずべし」と突然通達してきた。これを聞いた西郷は大久保に,「旧暦廃止がでくんもんか」と断言したと言う。

 予想通り,地方の多くはこれを無視し,旧暦を使い続けたようだ。伊敷地区も旧暦と新暦を併存しており,明治43年にようやく新暦に変わったとする記念碑だそうだ。西郷が言う通り慣習とは恐ろしいもので,今でも月遅れの盆など旧暦行事として行なわれている地区も多い。

★ このエピソードだけでも維新の獅子たちが,すごいことを短期間で成し遂げたことが分かります。

※一村一社令による合祀「日枝神社・諏訪・神明・八坂・月読神社」

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