1 甑島の地名
甑島は,古くは「五色島・古敷島・小敷島・子敷島・古志岐島」と呼ばれていました。また,薩摩川内市のホームページによれば,三国名勝図会に「上甑に東西を横切る瀬戸(串瀬戸)があり,その近くに,甑形(米を蒸すせいろ)の巨岩を,島民が甑島大明神と祭ったことに由来している」と記されています。
甑島の地名には「﨑・串・鼻」などが多く見られます。これらは岬を指す言葉で,半島や島の最先端部で海に突き出した地形を指しています。地名の由来は,漁師たちが甑形の巨岩を甑島大明神として崇めたことに起源しています。古くから日本人の「巨岩崇拝と穀物を蒸す道具・甑に対する信仰」が,この地域で結びついたと記されています。
・ 由来となった甑(蒸籠)形の巨岩
2 甑島の歴史
(1) 薩摩国より
平安時代の辞書「和名抄」や法令集「延喜式」によれば,薩摩国には以下の13の郡が朝廷の管轄下に組み込まれていました。
①出水(いつみ),②高城(たかき),③薩摩,④甑島(こしきしま),⑤日置,⑥伊作,⑦阿多,⑧河辺(かはのへ),⑨頴娃(えの),⑩揖宿(いふすき),⑪給黎(きひれ),⑫谿山,⑬鹿児島(かこしま)で,これらの郡が当時の薩摩国の行政区画として存在していました。
甑島は,最初に甑隼人(こしきはやと)が亀城を拠点にして統治していたようです。※甑隼人の後に,一時薩摩平氏が統治していた可能性も考えられます。
『史跡・亀城跡』の案内板によれば,亀城は甑隼人の砦城であったものを,鎌倉時代に入ってきた小川季直が城郭として手直ししたとされています。小川氏は承久の乱の戦功として甑島の地頭となり,この亀城を築城しました。城の麓には武家屋敷が建ち並んでいます。
郷士の住居の石垣には,近くの海岸で採取される玉石が使用されています。これは地元の資源を活かして築かれた石垣であり,甑島の歴史と風土を物語る要素とも言えるでしょう。
(2) 亀鶴城
亀城(里小学校隣)は,鶴城とともに「亀鶴城」と呼ばれています。この名前は,高い場所から見ると城の形が,そのまま鶴と亀に似ていることに由来しているそうです。鶴城跡はこの地より南東約二百メートルの丘にあり,「古城」とも呼ばれています。
鶴城跡についての具体的な明記は見当たりませんが,里小学校の南側にある田の中には小高い墓地(観農墓地)があります。距離的・方角的に他に目立つ丘は見当たらず,この場所が鶴城跡である可能性が考えられます。その墓地には大炊御門中将の墓があることから,この場所が鶴城跡であるような気もしますがいかがでしょうか。【要確認】
・ 亀城(24m)
・ 亀城の遠景
・ 手前の観農墓地が鶴城(17m)か?
・ 観農墓地にある中将の墓
・ 中将の墓の隣の古い墓石群
3 小川氏の統治
(1) 小川氏とは
甑島は鎌倉時代,小川氏の所領となり,13代にわたり370余年にわたって亀城を本拠として統治されました。小川氏は,武蔵国多西郡小川郷(東京都あきる野市)より起こった豪族であり,高名な日野宰相宗頼の子孫でした。承久の変(1221年)には,小川小太郎季能が鎌倉方につき,北条義時の軍に従って宇治川の戦いで手柄を立て,甑島地頭に任命されました。そして季能の子である小太郎季直(すえなお)が甑島に入り,ここを支配しました。その後,上甑島は塩田備前守に預けられ,小川氏は下甑手打に住まいを移しました。
(2) 小川氏の系図
① 関東から薩摩に下向 1247年の宇治合戦では,北条家と安達勝が三浦・千葉連合と対戦し,北条家と安達氏が勝利しました。この結果,渋谷氏と小川氏が甑島の地頭に任命されました。渋谷氏は宝治2年(1248年)に薩摩に移住し,その後東郷氏,祁答院氏,鶴田氏,入来院氏,高城氏として知られるようになりました。 同じ頃,日野一族の小川二代季直が甑島に下向し,鶴亀城に入りましたが,高城信久との間で甑島郡司職を巡る訴訟が行われています。 ② 系統 小川氏の系統は、日野宗頼(武蔵七党の西党・党祖・日奉氏)を仰ぎ、多摩川流域のあきる野市を本拠地とした名門でした。 以下が小川氏の系統です ・ 日野宰相宗頼-内舎人宗親-日野太郎宗忠-武蔵権守宗守-西次郎宗貞-西貫主宗綱-上田三郎宗李-小川太郎宗弘(小川郷を領して小川を名乗る)-小川太郎弘直-宮内右衛門尉直季-①へ続く ★甑島小川家 ①季能(甑島70町を賜る)-②小太郎季直(甑島に下向し、市ノ浦で薩摩平氏の残党と争い、鶴亀城に入る。後に高城信久と甑島郡司職を訴訟で争い勝利)-③又太郎季有-④小太郎季久-⑤遠江守公季-⑥遠江守久季-⑦三郎太郎高季-⑧越前守久季-⑨遠江守公季-⑩伊勢守季安-⑪越前守忠季-⑫越中守季輝-⑬中務大輔有季(田布施に移封で甑島370年の封を失う)-尚常と続きます。 「さつま」の姓氏より |
(3) 七人合頭・八人合頭
・ 七人合頭・八人合頭の案内板
・ 八人合頭の石垣(敵味方8人の墓)
・ 市の浦の案内板より
・ 七人合頭・八人合頭 承久の変(1221,この辺り(市山の峠)が戦場となってしまいました。この戦いで両者に戦死者が出て,敵味方合わせて八人・七人を同じ墓所に埋葬し,自然石を墓標として弔ったと伝えられています。この地に八人合頭,北側約50メートルに七人合頭があります。小川氏は,市山(遠見山登山口)の戦いなどで,先住の諸氏を制圧し,亀城に入ったといわれ,十三代(370年余り)にわたり島主として甑島を支配しました。 ~里村教育委員会~ |
・ 市の浦海岸から少し登った峠一帯が戦闘地 13名の戦死者
(4) 小川氏が建てた講之元神社
・ 小川氏の上陸地・市の浦海岸
・ 講之元神社案内板より
・ 講之元神社 承久の変(1221年)のとき,南関東に勢力のあった小川氏は,鎌倉方に参加して戦功をたて,肥後の益城郡の一部と甑島を与えられた。季能の子,小太郎季直の時に来島し,初めて上陸したのが市の浦であったといわれる。小川氏は370余年甑島を治めたが,初めて上陸したこの地に,講之元大明神を勧請して社を創建した。なお例祭は旧暦9月24日で,巫女舞が奉納される。 ~薩摩川内市教育委員会~ |
(4) 小川氏の田布施への移封
文禄4年(1595年)、13代島主である中務大輔有季(ありすえ)は田布施高橋(金峰町)へ移され、島津氏は曽木・酒匂の両氏を代官として派遣しました。更に、慶長16年(1611年)には本田伊賀守親政が移地頭に任じられ、元和5年(1619年)には彼が亀城に入りました。これ以降、亀城は明治の廃藩置県まで、260余年にわたり、薩摩藩の外城制度の象徴的な役割を果たしてきました。なお、亀城の麓には地頭仮屋跡(里小学校)があります。
有季は、一時期、薩州島津家5代実久の娘を娶り、薩州家家臣として勢力を誇示しました。しかし、1593年に秀吉によって薩州家が改易されると、その二年後に島津義久によって田布施郷高橋村に移封されました。有季は、郎党200騎余りを率いて新しい知行地である田布施へと移住しましたが、格下げの扱いに小川有季は激高し,吹上浜で自害したと伝えられています。
(5) 大性寺跡
大性寺跡の案内板によれば、大性寺は真言宗の寺院であり、甑島領主である小川氏の祈願所として建立されています。正式名称は「高竹山大性寺」で、通称は「城向寺」または「高竹寺」とも呼ばれていました。古くは寺号を「大聖寺」と称したと伝わっています。寺は後に廃寺となりましたが、その跡地には現在も墓地が残り、歴代の住職の碑、五輪塔、麓の郷士たちの墓、山伏開山法印の石碑などが建っています。また、大性寺の本尊である阿弥陀如来像は、建長2年(1252年)の作と伝えられています。現在では、この仏像が手打の大照寺に祀られているようです。
(6) 甑島の寺院
三國名勝図会によると,江戸時代、甑島には四寺が存在していた。里の旭寶山西昌寺(浄土宗),中甑の長圍山本福寺(真言宗),手打の高竹山大性寺(真言宗)「小川氏の祈願所」と補陀山常楽寺(曹洞宗)「小川氏の菩提寺」である。下甑村教育委員会
・ 手打引地の常楽寺跡「小川氏の菩提寺」