原良・西田・常盤・薬師・鷹師の地名由来《R6》1月2号

 「西田校区郷土史誌」によれば,江戸時代の西田方限は,北は永吉の一部,原良,鷹師,薬師,西田,常盤,武の北側までの広範な地域にまたがっていたとされています。なお,ここでの「方限」とは,藩政時代の区画割り(門割り)を指し,時折「郷中」とも称されていました。

原良

 かけ越しより山手側の源六宇都(原良川右岸)近くを原羅営(山手に向かってファミリーマート原良四丁目店手前)と呼んでおり,原良の地名はここに由来しています。また,原良地区の字名には二俣迫・彌五郎平・内田ケ平・山田・向江・岩崎・枯木迫・日枝ケ迫・柏原・中迫・源六宇都・稲荷免があります。常盤地区には尾畔・常盤谷・奥迫・水上坂・柿迫・新迫・三之迫・二之迫・一之迫などの地名が存在しています。

・ かけ越しを通る原良川(点線の奥)と柳

西田

 明治44年,西田村から常盤町が分かれ,同時に「上尾畔」「尾畔」「稲荷免」「住吉」「上添」「上水流」という6つの地区は薬師町に編入されました。西田町として残ったのは,「高崎」「地貫」「七つ枝」「八つ枝」の4つの地区でした。西田橋から水上坂を通って横井への道は,江戸時代に参勤交代で藩主が通る道でした。西田橋から道の両側には,溝(石井手用水から通していた)があり、現在の西田町から常盤町に入る西田小近くの交差点には,かつて「丁門(ちょもん)」と呼ばれる門が存在していました。

常盤町

 明治22年に鹿児島市が誕生した際,この地域は「西田村」の一部でした。そして,明治44年の鹿児島市議会)で,西田村の山手側の「一の迫」「二の迫」「三の迫」「新迫」「楠迫」「枯木迫」「水上平」「田平」「常盤谷」「常盤」が一つに統合され,「常盤町」として呼ばれるようになりました。

1867年,島津家20代の藩主綱貴は,枯木迫に別館を建て「常盤御殿」と名付けました。これにより,この地域は「常盤谷」と呼ばれるようになり,やがて「常盤町」の名前の元になりました。

※ 才女常盤は,島津家中興の祖・忠良を生み,厳しく育てたことにより,戦国大名として九州全域を凌駕するまでになったことで,歴代の当主からも深く慕われていました。一説によれば、この地名は,藩主綱貴が深く尊敬していた7代前の常盤に由来するものとされています。

薬師町

 本ブログ10月5号の「城西公園の薬師堂」でも紹介しましたが,城西・薬師一帯は島津家の屋敷と薬草苑があり,薬師如来像が祭ってありました。薬師様の小堂があり,町名はこれによると,記されています。鷹師・原良・薬師町は広大な田地が広がっており,西田町から玉里邸,玉江橋あたりまで,目をさえぎる一軒の農家もなかったようです。確かに,今の城西福祉館辺りから桜島フェリーが見え,汽笛で目が覚めることもよくありました。現在ではマンションが建ち並び,桜島さえ見えなくなってしまったのが現状です。

鷹師町

 明治32年,「鷹師馬場」から鷹師町と改名されました。この名前の由来は,藩主の鷹狩場が尾畔にあり,その「鷹師匠」が住んでいたことによります。当時,尾畔は磯庭園と並ぶ風光明媚な地であり,小松帯刀や花岡島津家の別荘も存在して茶屋や宿屋も数軒あったそうです。重豪や斉彬,篤姫などが訪れた桜島と鹿児島市が目前に広がる名勝地「雄風亭」もありました。

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