1 徳重神社の殉死の碑「義弘公の13人」
案内板には以下のように記されています。「元和5年(1619年)7月21日,義弘公(享年85)が没すると,その恩顧を受けた家臣たちが後を追って殉死しました。当時,薩摩藩では殉死が禁じられていましたが,家久(18代当主)は彼らの死を哀れみ,13年後の寛永9年(1632年)に妙円寺境内のこの地に13名の地蔵塔を建て,後世にその志を伝え,祭ってきました。」
境内に安置された地蔵尊像は,宝珠や錫杖を持たず,全員が合掌の姿をしています。これらは「合掌地蔵」と呼ばれるものです。この13名の殉死者が成仏し,残された妻や子供たちを守り,無病息災や五穀豊穣など,さまざまなご利益をもたらしてくださることを願い祀られているのです。
薩摩では,鎌倉時代から戦国時代にかけて幾度となく激しい戦乱が繰り広げられましたが,殉死の例は意外と少ないようです。特に戦国時代では,戦いが絶え間なく続く中,主君が亡くなってもその家が存続する限り,家臣として忠義を尽くすことが美徳とされていました。そのため,戦力面からも殉死は容認されませんでした。
2 奈良原助八の殉死
玉龍高校の近くには「奈良原助八殉死之地」があります。奈良原助八(1483~1508)は,山城国賀茂(京都市加茂)の出身で,16歳の時に当時の11代島津忠昌公(1463~1508)に仕えました。しかし,忠昌公の治世は豪族間や身内同士の戦乱が続き,極めて困難な状況に置かれていました。
永正3年(1506年)に肝付氏が反乱を起こし,忠昌公は永正5年(1508年)2月15日に清水城内で自刃してしまいます。当時25歳だった奈良原助八は,主君の自殺に責任を感じ,福昌寺門外の楠の下で親類や友人に遺書を残した後,後を追い殉死しました。奈良原助八の死は,島津家において初めての殉死とされ,その地には六地蔵塔が建てられ,彼の供養が行われました。
奈良原家はその後,幕末まで家格代々小番(100石)の特別待遇を受け,子孫は各地の地頭職などを務めました。
3 尾辻佐左衛門の殉死
日新公の家臣であった尾辻佐左衛門は,日新公の三男である島津尚久が亡くなった際,殉死を決意し,主君である日新公に挨拶に行きました。日新公は彼の覚悟を察し,佐左衛門の刀を取り上げました。しかし,彼はそれでも,永禄5年(1562年),角のある石で腹を切り,尚久に殉死しました。佐左衛門の墓は,竹田神社にある尚久の墓の隣に建てられています。
4 三勇士の墓
日新墓地には,山川石で刻まれた三基の宝篋印塔が立っています。これらは,奈良原長門守(2の助八の子孫),春成兵庫介久正(惟宗姓),梶原藤七兵衛の三名の墓です。日向の伊藤義祐が飫肥城(日南市)を攻めた際,城主忠親を救うために日新斉は兵を動員し,三男の尚久を将として出陣させました。
飫肥城下の板敷田間での戦闘では,尚久の軍が敗北の危機に直面しました。その際,家老の春成を含む三名の勇士が尚久の身代わりとなり戦死しました。彼らの冥福を祈るため,日新斉はこの日新墓地を建てました。この場所は,戦いの中で犠牲となった勇者たちへの敬意と感謝を表すために築かれ,その宝篋印塔は彼らの武勇と献身を永遠に讃えるものとなっています。
また,別府城の決戦では,尾辻と辻と名乗る伊作の従臣たちが,伊作紙の商人に扮し加世田に潜入しました。二人は居酒屋で喧嘩を装い,一方が友人を切り殺しました。切った者は急いで敵城である別府城に逃げ込み,「友を斬ったために伊作に戻れば処刑されるので,この城で保護してほしい」と訴え,城内に入り込むことに成功しました。その後,彼は城内の機密情報を日新斉に密かに伝え続けました。後に別府城が落城し役目を果たすと,その者は斬った友の墓前で約束通り切腹したと伝えられています。残された家族は日新公が面倒を見たとのことです。
この作戦は日新公にも伝わっていたのですが,このような悲惨な死に方は,殉死ではなく,何と呼ぶべきなのでしょうか。「日新公生誕五百年記念誌」より
5 殉死の禁止
江戸時代に入ると,戦で手柄を立てる機会が減り,主君への感謝や献身的な忠義から殉死が流行したと言われています。一方で,薩摩では殉死が禁じられていましたが,新納忠元(1611年)の死に際しては,2名の家臣が殉死した際,その願いが認められました。また,1619年には島津義弘が85歳で長寿を全うし生涯を閉じましたが,禁令にもかかわらず,義弘を深く慕う13名の家臣が後を追って殉死しました。同様に,全国的にも有力な武将たちの死去に際して殉死する家臣が続出した時期があり,これは当時の武士たちの間で一種の流行だったとされています。
1663年(寛文3年),四代将軍家綱は武家諸法度を発布する際,殉死を禁止する旨を明確にしました。しかし,この家綱の政策にもかかわらず,その後も殉死者は後を絶たず,幕府はその藩に対して減封や殉死者の子を斬罪に処すなどの厳格な措置を取りました。これにより,殉死の風習はほぼ廃れることとなりました。
6 薩摩の男尊女卑
薩摩では,士族階級において殉死に対する否定的な見解が一般的でした。これは,藩主としての統治者の考え方が大きな影響を与えていると考えられます。しかし,薩摩における男尊女卑の思想「家族のために命を賭して,不浄(血=死)や不吉を嫌う(風呂に先に入る,洗濯物を同じタライで洗わない)等々…」が根付いた背景には,男たちの死に場所への覚悟や,彼らを送り出す妻たちの決意が関係していたように思えます。
蒲生町の「おごじょカレンダー」成立に影響した藩政時代に戦場に赴く郷士は,家族の未来を守るために命をかけていました。島津の退き口で犠牲になった武士たちは,命を惜しむことなくその身を捧げ,その功績によって残された家は加増されました。「死に場所」を常に意識し,自らを律していた者たちは,細かいことを思案する余裕がなかったのかもしれません。それを妻たちは察していたのです。何しろ,薩摩の禄高は他藩と比べてもかなり少なく,家族が生き延びるための苦労は計り知れないものでした。
薩摩の殉死した武士たちに「商腹」はなかったと信じたいですが,薩摩の百姓には「生存」はあっても「生活」はなかったと言われています。これは百姓だけでなく,麓侍も同様でした。命を賭して家を守ることが,男にとって最大の尊厳であったのでしょう。その陰で彼らを支えた女性たちこそが,正真正銘の「薩摩おごじょ」だったのです。