学校よもやま話~雑感その1「宿直」《R6》2月3号

 今の校舎は児童数減少に伴い,空き教室を活用した更衣室や学年室などがあり,先生方の休憩場所として利用されています。児童数が多かった昭和30~40年代は空き教室が殆ど無く,唯一用務員室(主事室)が憩いの場で,職員同士の団らんの場でもありました。今回は用務員室での宿直に関わるエピソードを三つ紹介します。

宿直室は交流の場

 学校には校舎の近くに用務員室(主事室)があります。昔は,ここで当番の男の教師が寝泊まりしていましたが,私が学生年代にその「宿直制度」は無くなりました。学校での宿直は,明治の終わり頃始まったそうです。そのきっかけは,奉安殿の天皇の御真影(写真)を火災や盗難から守る必要性があったためでした。戦後,奉安殿が廃止され御真影や教育勅語の管理がなくなっても,学校管理の名目で宿直は続けられました。

 学校には一日中(或いは一年中)先生がいるため,子どもたちが宿題を聞きに来たり,地域の青年団が飲みに来たりして交流の場(小さな村には飲み屋がなかった)になっていました。一応勤務なので飲酒は出来ない筈ですが,大らかな時代だったのですね。父も若いころ2~3日寝ないこともあったそうです。

 そういえば,わが家は学校の隣の教職員住宅で,よく先生方の宴会場になっていました。朝方,コタツの中に3~4名の先生方の足があったことを覚えています。

 

ニワトリの世話係

 私が小学校時代の話ですが,当時,私は「ニワトリの世話係」をしていました。ある朝,野菜を持って飼育舎に行くと,そこにいる筈の二羽のニワトリがいなくなっていました。担当の先生のところに行くと,「ああ,昨日の晩に食ったよ…,食った!」と,悪びれる様子もなく言い放ちました。

 昨夜,十名ほどの地域の青年団が飲みに来て,宴会になったそうです。すぐにツマミが無くなってしまい,ニワトリをさばいて刺身にしたということです。可愛がっていただけに,その出来事はショックでした。今だったら全国ニュースになるでしょうね。

 当時は,農家の軒先でニワトリをさばいていたのをよく見かけました。お爺さんたちがその血を飲んでいたのも,目に焼き付いています。それ以来,鶏肉が嫌いになりましたが,教職に就いて給食を食べるようになってからようやく克服しました。

 鶏肉は価格が安く,給食に入っている肉と言えば鶏肉が非常に多いです。もちろん栄養バランスのことも考えてはいますが…。今なら「食育」の一環で日本一の鹿児島牛のA5ランクが出てもいいのにと思うはずです。

※ 学校の給食献立は,「学校給食摂取基準」に基づいて栄養バランスや多様な食材の活用,給食予算などを考慮して作成されます。近年は小規模校が増え,単独で栄養職員が配置されず,食物アレルギー,食育や郷土料理の導入,業者選定などの様々で困難な問題が生じています。例えば,大規模校では個々のアレルギーの除去食材や代替品メニューの作成など命に係わる問題が,児童数に応じて生じています。そのため,複数の学校の栄養職員が協力して「標準献立」を作成することが主流となっているようです。この他,離島の給食納入業者は,山奥から海辺の学校まで1校当たり十数本の牛乳を毎日数時間かけ運ぶなど,運営上の悲惨な事例も聞きます。

父の宿直での話

 私が小学校に入学する前の種子島での話です。当時は若い先生方は給料が安く,宿直を希望する先生が多かったそうです。しかし,一旦台風が近づくと自転車やオートバイで通勤してくる若い先生方は学校に行けず,急遽父が宿直になることが多かったと言っていました。それは,私たちが学校隣の教職員住宅に住んでいたからでした。

 大型台風が近づくある夜,猛烈な突風で家がガタガタと揺れはじめ,私は怖くて眠れませんでした。しかし,父が台風の中,時折学校から我が家の様子を見に来ると,すごく安心したことを覚えています。種子島は高い山(最高峰282m)がなく,冬場はよく突風が吹いていました。台風ともなれば,恐怖でいっぱいでしたが,父の存在が一番の支えで,父の有り難さを一番感じた時でした。

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