・ 徳光神社
・ 前田利右衛門生誕地
徳光神社案内板より
指宿市の山川岡児ケ水(おかちょがみず)には,さつまいもを広めた前田利右衛門を祭る徳光神社があります。利右衛門は1705年河野家の船で琉球に渡り,そこで食べた芋の種を持ち帰りました。芋の原産地はアメリカですが,コロンブスがヨーロッパに持ち帰り,やがて中国から琉球へと伝えられたため,カライモ(唐芋)と呼ばれました。薩摩は火山灰土壌で台風の常襲地であり,米を含め雑穀類も上手く育ちませんでした。しかし,カライモは薩摩の地にも育つことができ,神からの恵みとされました。人々はこの芋のおかげで飢えを凌ぐことができ,飢饉から多くの命を救ったのです。この話は薩摩藩から幕府に伝わり,青木昆陽が全国に広めることになりました。そして,イモが薩摩から広まったため,「サツマイモ」と呼ばれるようになりました。しかし,利右衛門が沖縄から持ち帰り,実際に栽培に成功した功績は,日本を救った人と言っても過言ではないでしょう。
前田利右エ門の墓石
利右衛門の墓石は,享保4年(1719年)に建立されました。前田利右衛門は1705年,琉球から初めて甘藷の種芋を本土にもたらし,岡児ケ水に植え付けました。その後,次第に国内に広まり,食用として多くの飢饉を救いました。また,墓石の傍らに設置されている河野・佐々木両家による頌高碑も,利右衛門の事跡を知るとともに,両家と利右衛門との関連を偲ばせる大切な資料です。
・ 前田利右衛門の墓
・ 顕彰碑(河野・佐々木家)
日本における酒の起源
酒の起源は,弥生時代の本格的な水田稲作の開始とともに始まったと考えられていますが,それ以前の縄文時代にも,お酒の存在を考えさせる器が見つかっています。
縄文時代中期(約5500年から4400年前)に作られ,主に関東・中部地方に分布するこの土器は,樽のような形をしていて,胴部には人と蛙の特徴を併せた像が描かれています。特徴は,口縁部直下に鍔状の帯を巡らせ,小さな孔が等間隔に並んでいることだそうです。この土器の中から山葡萄の種子が見つかった事例から,醸造用の容器であったとする説が有力です。並んだ孔は,発酵の際に出るガスを抜くためのものであり,蓋を紐などで固定する役割があったと考えられます。
・はしむれ館の企画展の資料より
・ 橘南谿像(久居市図書館蔵)
旅日記にみる江戸時代の芋焼酎(橘南渓)
他の地域からの旅行者が鹿児島を訪れると,まず,手軽で美味しい芋焼酎に驚くそうです。(この時代の沖縄の泡盛は高級品)
(1) 天明2年(1782年)から翌年にかけて,鹿児島を旅した京都の医者,橘南渓が著した旅行記「西遊記」には,焼酎について次のような記述があります。
「薩州には焼酎という琉球の泡盛のような酒があります。京都の焼酎(粕取り)のように強くなく,薩摩国の七分は皆この焼酎似て酒宴をしているようです。(中略)京・大阪から取り寄せた高価な酒は祝儀事に用いて,この国にたまに造る日本酒は品質がよくなく美味しくないようです。
それ故に,焼酎を多く飲むのです。さつま芋で造る焼酎の味はすごく美味しいのです。その他,一般の人は「キビ・アワ・ヒエ」の焼酎を造っています。予め造り方を伝えて,ここで使用する道具を揃えて帰り,我が家でも焼酎を造っています。三升でも五升でも必要か分だけ自由に造れるので便利です。大切な客をもてなすときのこれで済みます。他の国でも何故焼酎を造らないのはどうしてだろうか。道具を持ち帰って家でも焼酎を造ってみたが,芋焼酎の味はとても美味しく,必要な分だけ造ることができ,客をもてなす際にも風流で良いと述べています。
(2) 焼酎の値段を決めるのは,現在は蔵元ですが,江戸時代は地域の役人(横目)が行っていました。1790年の横目の記録「諸生総横目所日帳」によれば,焼酎を取り寄せてその風味を試飲して決めており,ある日は焼酎一杯の代金が甘四文(24文)と決めたとのこと。なんとも羨ましい仕事です。ちなみに,当時かけそばが16文,焼酎1杯がかけそば1.5杯分の値段ということになります。
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