伊集院町飯牟礼に石屋禅師(1345-1423)が若い頃,修業していた古城山円勝寺がありました。ここ飯牟礼の地は,伊集院氏の発祥の地に当たります。島津氏以前のこの地は,薩摩国なのに大隅国の鹿児島神宮領(万得領)になっていました。これは当時は有力大名が少ない群雄割拠の時代で,各豪族は薩摩国・大隅国の区別なくその時の強い勢力の傘下に与していた時代的背景が伺い知れます。
島津氏が薩摩に下向してからは,島津宗家2代忠時の7男である忠経の子孫が,領地の地名をとって伊集院氏や飯牟礼氏,町田氏などといった島津家の分家として独立し勢力を広げていきました。
忠国の子どもたちは,伊集院,日置,麦生田,大重,黒葛原,土橋,吉利,飛松,四本などの土地を与えられ,それぞれ領有していきました。娘は,島津本家に嫁ぐなどして勢力を日置郡下に拡大していきました。一方で,南仲景周と石屋真梁は仏門に入り,伊集院氏の統治を宗教面からサポートしていきました。1363年兄の南仲は,伊集院家発祥地の飯牟礼古城近くの開けた台地に臨済宗の寺院,古城山円勝寺を創建したのです。
「古寺(円勝寺)跡地」の案内板より
かつてこの地には,円勝寺という薩摩における臨済宗の寺院がありました。この寺は,南北朝時代の伊集院領主である伊集院忠国の7男である南仲景周和尚によって建立されました。南仲和尚は,京都の南禅寺で修業を積んだ後,この寺で臨済宗の教えを広めていきました。
1398年には,寺を伊集院郡に移し,寺名を泰定山広済寺と改めたのです。ここ円勝寺の跡地には,薬師堂が建てられ,薬師如来の木立像が安置されていました。地元ではこの場所を,愛着を込めて「古寺跡」と呼んでいます。
・古城山円勝寺跡
・ 廣済寺(三国名勝図絵)
「泰定山広済寺跡」の案内板より
伊集院忠国(一宇治城・城主)の十余名の男子はそれぞれ強い武将となり,島津一族の中でも着実に勢力を広めていったのです。また,南仲和尚も新しい伊集院氏の本拠地近くに寺を移したいと願っていました。しかし与えられた地は,後ろの山が険しく前には大きな池があり敷地も狭いのでためらっていました。ある夜に大雨が降り続き,山が崩れて池が埋まり,広い平野ができていたのです。
・広済寺跡
そこで仏に感謝し,「泰定山広済寺」と名づけて開山しました。この寺は禅宗の一派である臨済宗の寺です。その後,忠国の孫である第7代当主伊集院頼久の寄進により,山門,仏殿,方丈,浴室,経堂など豪華な寺が完成しました。
ところが,250年経った慶長18年に大火が起こり,七堂伽藍を初めとする宝物や文書などがすべて焼失してしまい,以後50年近くは住職も不在となったのです。後に,末寺の太田の報恩寺の雪岑和尚(琉球使者として中山王の護衛役)の協力を受けて,延宝年間(1673~81)に新たに再興され,明治2年まで栄えましたが,廃仏毀釈により全てが壊され,山門の仁王像が残るのみとなりました。
忠国公以下代々の城主の墓も,寺が荒れた時期に脇の円福寺へ移されました。石屋禅師も若い頃,この寺で兄を師として勉学に励んでいたのです。
・広済寺墓石群