桂庵の訓読法とは【R6】4月18日

桂樹院(田ノ浦)は何処

 桂樹院は,桂庵禅師のために薩摩で初めて建立された寺院です。この寺院について,「薩隅日地理纂考」にも次のように記されています。

 「吉野橋の北約109メートルの場所に,文明年間(1469~1487)に桂庵禅師が開基した。桂庵禅師は中国に渡り,文明5年(1473)に帰国した際,薩摩国坊津に上陸した。その時,応仁の乱により京都に上ることができず,薩摩に留まった。薩摩の国主である島津忠昌は,桂庵禅師が儒学に通じていることを聞き,すぐに桂樹院を建立して住持とした。桂庵禅師は,程朱学を広めて儒学の名声を世に轟かせた…」このようにして,桂庵禅師は薩摩にて儒学を広め,桂樹院を拠点としてその学問を伝えました。

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・ 多賀山公園から望む開聞岳

 しかし,この「薩隅日地理纂考」の内容は,実際の史実とはやや異なります。桂庵玄樹は明国から帰国する際,大内船で一旦故郷の山口に戻っていますので,坊津には入っていません。その後各地を転々とした後,薩摩に入っていますので,この記述とは異なる点があります。

・ 石橋公園近くの田の浦窯

 ところで,藩主忠昌が桂庵のために建てた桂樹院島隠寺の場所はどこだったのでしょうか。正確な記録が残っていないため,はっきりしません。しかし,鹿児島八景の一つ『島陰漁火』は桜島が隠れる所(島陰)であったとされており,清水町祇園之洲近くの田ノ浦であったと考えられています。少し上がった多賀山公園(東郷墓地)下の駐車場からは桜島が見え,「島陰」にはなりません。この地の地形を考えると,現在の「田の浦窯」から岩元氏邸近くに位置していたのではないでしょうか。

 それにしても,桜島が見えないから「島陰」と呼ばれたこと自体,鹿児島城下にとって桜島が如何に特別なものであったかが窺い知れます。この特別な存在を端的に表した地名が「島陰」なのでしょう。

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・ 多賀山公園の駐車場から見える桜島

・ 城下を南西に望む島陰院跡?

鹿児島八景(田之浦)

・ 島陰寺(田ノ浦) 島陰漁火より

・ 開聞岳を望む田之浦眺望

 「三国名勝図絵」の田之浦の項には次のように記されています。

 『鹿児島城の東北に位置し,祇園(八坂神社)の浜から磯に至る山縁の海岸です。錦江湾に南向きで開聞岳から鹿児島城を前面に望む地であり,薩摩半島と大隅半島に囲まれた大きな内海は湖のように見えます。田之浦はこの浦の西岸にあり,波が立つと海面が白く光り,夕暮れには空が青く染まります。磯に近い沿岸で風光明媚な珍しい景観を持ち,鹿児島八景の一つとされています。』

漢字だらけの仏教経典

 6世紀半ばに日本に仏教が伝来して以降,漢字で書かれた仏教経典を読み解くことが,即ち漢文訓読に繋がりました。これは,文法の異なる中国語(漢文)をどのように解釈すればよいかを教える教授法であり,当時の僧侶たちにとって喫緊の課題でした。

 長い年月をかけて,日本人が習得した訓読法は,句読点や返点(レ点,一二点),送り仮名などの方法を学ぶことでした。これにより,孔子や孟子などの漢文で書かれた文章を日本語として理解する読解法となりました。儒教や仏教を広めるために,この訓読法は必要不可欠でした。

 聖徳太子の時代には既に簡易な訓読法が存在しており,その後も個々の学僧たちによって徐々に訓読能力が高まっていったとされています。

・ 三国名勝図絵造士館の項「桂庵について」

京都五山の学僧たち

 室町時代に入ると,京都五山の学僧(岐陽方秀・桂庵玄樹)らが,子弟教育の一環として,より精密な訓読法を生み出していきました。しかし,中国で7年間ネイティブで学んだ経験を持つ桂庵玄樹の訓読法は,それまでのものとは異なっていました。

 桂庵玄樹にとって,訓読法は漢文を理解するための補助的な手段に過ぎず,音読(中国語)を重視していました。彼は,それまで省略されていた置字や落ち字もすべて読むことで,訓読(日本語)ではなく唐韻(ネイティブ発音の中国語を用いることを望んでいたようです。彼にとって,訓読は原文を理解するための補助的な手段に過ぎず,文意はあくまでも原文によって理解されるべきものでした。

・「桂庵和尚家法倭點」デジタルミュージアムより

英語教育の反省

 令和2年度から大きく変わった英語教育の求めるところは,「言語としての英語は使えなければ意味がない」ということです。現代は世界中に情報を発信する時代であり,実用的な英語力が求められます。そのためには,小学校から実践的な英語を学ぶ必要があります。

 昭和の時代に私たちが学んだ英語は,カタカナ英語と揶揄され,本来の発音とは異なる「日本語なまりの発音」でした。現在の英語教育では,ネイティブの発音を重視しています。今の子どもたちは,ジェスチャーを交えながらネイティブに近い発音を身につけています。

 私たちが子どもの頃,外国人を見るとドキドキしたものですが,今では道端で外国の方と会話している小学生を見かけることすらあります。学校の授業でネイティブと会話する機会が多いため,これは当たり前のことと言えるでしょう。かつて留学経験のある桂庵玄樹がこだわった「漢文は中国語で理解させる」という姿勢と同じように,「英語はネイティブで」という考えに繋がっていますね。桂庵玄樹 恐るべし…。

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