今回,初めて山口市の泰雲寺(闢雲寺)を訪れました。その際,お寺の関係者に,鹿児島から石屋和尚の足跡を訪ねて旅していることを伝えると,忙しそうに作業していた手を止め,時間を割いて親切に寺の説明や世間話をしてくださいました。この寺は,まさに市原悦子のマンガ日本昔話「びゃくうん寺の強盗」を偲ばせるような温かく親切なお寺でした。山口の方々の暖かさが,心温まる思い出となりました。
・ 泰雲寺の参道
・ 大内教弘公の墓
定庵殊禅和尚
月光山泰雲寺は大内24代盛見(もりはる)が薩摩の石屋禅師を招いて創建した曹洞宗の寺院です。泰雲寺二世の定菴も石屋真梁の弟子で同じ薩摩の出身なのです。
・ 定庵殊禅和尚(泰雲寺二世・大寧寺三世)
彼が住持となった頃,「僧は常に一千人に及んだといわれる」(泰雲寺の歴史)という記録があり,当寺院の隆盛ぶりを物語っています。その後石屋に呼ばれ大寧寺に移り住んでいます。大内氏は将軍家に近く,基本的には京都五山を中心とする臨済宗でしたが,大内教弘の菩提寺は曹洞宗でした。石屋派は九州,壱岐対馬から琉球,朝鮮との交易を広げていたとされ,九州には大内氏の分国もあったため,その繋がりがあったのでしょう。
大内氏の先祖は渡来系
中世の有力大名は自らの出自を「源平藤橘」から求め、統治の正当性を主張するものです。しかし、大内氏の始祖は百済の第26代聖明王の第三王子・琳聖太子とされていますので、朝鮮半島出身の渡来人であることを公言しています。
・ 石屋真梁(パンフレットより)
百済の王統の真偽はともかく、平安期までは渡来系は超エリート集団であり、朝廷に近づく手段でもあったようです。
彼は周防国の国司として活躍し、1358年には24代弘世の代に周防・長門の国を統一し、全盛期を迎えています。その後、1551年には31代義隆が家臣の陶氏の謀反で正統が断絶するまでの約200年間、大内氏は混乱する京都に代わって大いに栄えています。
この時代、石屋真梁禅師やその弟子で同じ薩摩の定庵殊禅和尚(大寧寺三世・泰雲寺二世)もこの地で大内氏の栄華を支えた学僧なのです。
・ 大内氏「西日本最大の御屋形様」 24代 大内弘世(1326~1380) ※ 今から660年前の室町時代に活躍した御屋形様 25代 大内義弘(1356~1400) ※ 足利義満を長く支えて戦で大活躍。信頼感から領土を広げる。最後は武士の信念により将軍と 戦う(応永の乱) 26代 大内盛見(1377~1431)義弘の弟 ※ 五重塔建設,石屋禅師(曹洞宗・月光山泰雲寺) 27代 大内持世(1394~1441)義弘の息子 ※ 足利義教の暗殺事件に巻き込まれた(嘉吉の乱) 28代 大内教弘(1420~1465) 29代 大内政弘(1446~1495) ※ 文武に秀でた当主 応仁の乱で京から逃れた文化人(雪舟等)を受け入れた。 30代 大内義興(1477~1529) 31代 大内義隆(1507~1551) ※ 大内文化の絶頂期 陶晴賢のクーデターにより自殺し大内氏正統は滅ぶ。 |
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