石屋真梁開山の寺院(大寧寺) 

瑞雲萬歳山 大寧護国禅寺

 3月中旬に大寧寺を訪れた際,提灯の取り付け作業が行われていました。下調べ不足で知らなかったのですが,大寧寺は中国地方の桜の名所で,夜間はライトアップされ,県内外から多くの観光客が訪れるそうです。

 うららかな陽光の中,参道を歩いていると心地よい気持ちになりました。私は四季の中でも桜の花が咲くこの時期が一番好きです。大寧寺は曹洞宗の屈指の名刹としても知られており,桜と厳かな寺院や庭園が幻想的な雰囲気で優しく包み込み,境内の散策も一段と楽しくなりました。

防長五刹

 大寧寺は山口県の防長五刹の第一の寺として知られています。防長五刹の寺院の開山や中興に,石屋真梁禅師や石屋派の学僧たちが関わっていました。

・ 大寧寺

第一 大寧寺(石屋開山) 
第二 龍文寺(竹居開山) 
第三 瑠璃光寺(石屋派の大庵須益)
第四 泰雲寺(石屋開山) 
第五 禅昌寺(石屋派の雪心真昭)
・ 防長五刹

・ 竹居正猷禅師

 石屋派のリーダー竹居正猷禅師は,長門大寧寺に住山すること30年。1461年,竹居禅師は鮮やかな事跡を残してこの寺で亡くなりました。(82才)太守大内教弘公は,禅師の臨終・野辺送りまで立ち会ったと伝えられています。 

伊集院出身の竹居正猷禅師(ちっきょうしょうゆう) (1380~1461)

 石屋禅師には石屋六哲として知られる弟子たち「竹居正猷(薩摩),田霊用、智翁英宗(日向),定庵守禅(薩摩),監宗桂鑑、覚隠永本」がいました。特に竹居正猷は同じ伊集院出身の石屋に師事した後,南禅寺の惟肖得厳からも教えを受けた著名な禅僧でした。これらの弟子たちは石屋の教えを広め,石屋派として中国・四国・九州の西日本一円に影響を与えました。

 石屋真梁禅師とその弟子たちは,多くの寺院を通して幕府や各藩を繋ぐ外交官として,活躍していました。また,産業振興や港湾の整備などを指導する技術者として,中国交易での通事として大内家に重用されていました。この石屋グループの元締めとして腕を振るったのが竹居正猷禅師であったのです。

松元町の直林寺

竹居が住職の任に就く前に大寧寺を舞台に大きな騒動がありました。大内本家と鷲ノ頭家の対立が激しくなり, 1448年大内28代当主教弘公の深川城急襲を受けて一族重臣ともども全滅する悲劇となったのです。開基の戦死を知ると,弘忠公への崇敬厚かった竹居禅師は,直ちに寺を退去し,薩摩の藩主に願い出て,亡き師石屋が創建した郷里の薩摩直林寺へ隠居することにしたのです。 

・ 石屋開山の直林寺(鹿児島市松元)

 大内教弘公は以前から闢雲禅寺(泰雲寺)で竹居正猷禅師へ深く帰依してきたので,大内教弘卿自らが再三にわたって懇請し,再建した大寧寺への帰院を促しました。とうとう断ち切れず,竹居正猷は弟子を伴って大内家鎮魂の寺として新装なった大寧寺へ再住することになったのでした。そして,大寧寺のは石屋派によって再興し,石屋真梁(1345~1423),二世・智翁永宗(1372~1426),三世・定庵殊禅(1373~1432), 四世・竹居正猷(1380~1461)と繋がっていくのです。

 大寧寺だけでも末寺まで含めると,周防・長門(山口),筑前(福岡),肥前(佐賀),肥後(熊本)まで六百数十寺を数え,西日本の禅宗系(曹洞宗)寺院の中心的存在でした。石屋派の多くの禅師が禅宗系寺院の開山・中興に関わっていることになります。若き頃の桂庵玄樹も防府や長門で石屋派の学僧たちと関わっていたようです。

・ 石屋真梁禅師(大寧寺HP)

 

石屋真梁禅師

 大寧護国禅寺のパンフレットによると,「大寧寺は1410年,大内一族の鷲頭弘忠公が薩摩の石屋真梁禅師を開山として開創しています。石屋禅師は,18歳で中国に渡り修行を積み、約20年間(※要確認)活達磨と称賛されました。帰国後,南北朝に分かれていた皇室を,後小松天皇の勅命により1392年に合一させ,皇室から絶大な信頼を得ていました。

・ 石屋禅師の墓(義隆墓の対面)

 また,大寧寺は学徳兼備の名声と遺勲を礎として,6世紀にわたる寺史を有し,かつては全国に6百数十ヶ寺に及ぶ末寺を有する僧録寺として栄えました。その壮麗な美観は「西の高野」と称され,毛利家の香華院や,萩藩毛利家の上級家臣たちも境内に墓碑を建立しています。

 大内氏は戦国時代の荒れた京都に代わり,石屋禅師や竹居禅師,定庵殊禅などを通して優れた禅宗文化を育て上げました。後に雪舟や桂庵などを遣明船で派遣し,大内文化の最盛期を築くなど全国的に愛される名門大名となりました。

・ 大内義隆「姿見の池」 

大寧寺ものがたり

 岩田啓靖著の「大寧寺ものがたり」によると,1551年,重臣陶晴賢の反乱により,大内義隆はここ大寧寺で自刃し,本家の正統の流れは絶たれました。「姿見の池」は,義隆が境内に入る前の参道わきの岩にかぶとを掛け,近くの池で乱れた髪を整えようとしたそうです。しかし,水面に自分の姿が映らず,運命を悟った義隆は本堂に入り,潔く自刃したのです。かつてこの地で鷲ノ頭弘忠が,大内28代当主教弘公の急襲で全滅した100年前の悲劇が,今度は大内31代義隆を襲うことになったのです。なんという巡り合わせでしょうか。

・大内義隆の墓

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