玉川用水(田上川)
玉川用水は,旧藩時代,田上の上(かみ)部落の所に堰を作り,ここの水を田上・武・荒田・中村・郡元の五か村に灌漑用水として作られたものである。その後豪雨によって壊されてしまった。昭和9年,田上川の上部落の川底から水神碑が発見されて玉川井堰のことが分かった。この碑によると,嘉永4年(1851)のことで旧藩時代に石材をもって築造していたとある。
鹿児島県維新前土木史によると「天正10年(1582)田上川の水を引いて開田した」とあるそうである。しかし,天正年間(1573~1592)は島津氏にとって三州統一から始まり,耳川の戦い(大友氏),沖田畷の戦い(龍造寺氏)を破り九州制覇に取り組んでいる最中である。九州の役(1587年)でついに秀吉に降伏するまで大規模な開発は考えられない。
本格的な開田が,島津斉宣が奉行平田右衛門に命じた新田開発で,文化年間の石井手用水(甲突川)と玉川用水(田上川)を通した開発計画であった。まず石井手用水を延長することで武・荒田方面をカバーし,次に玉川用水で田上川が南下する流れを変え,中村・郡元・鴨池へと新田を広げていくことだった。すると新たに新田が400町余り開かれることになった。新川は長さ1.9キロ,川幅14.5m,堤防の高さ1.8m馬踏(河川沿いの道)3.6mの規模であったそうだ。
甲突川左岸の長井田川用水
・ 上屋用水の道筋海抜凡そ30mの高台を流れ元伊敷小学校裏を流れ大平田一体を潤した。