桜島の地名由来について(桜島町郷土誌)
・江戸期の図絵「牛根から見た桜島」
古書には桜島のことを向島(向之島)と書かれたものが多く,桜島が鹿児島の向こうにあるからという説や東西南北いずれにも面しているためという説もあります。
※ 江戸期以前、桜島は大隅国に属し,特に鹿児島神宮の支配下にありました。当然、命名権も神宮にあったと考えられます。神宮の向かいにある島で「向島」と呼ばれたという説が有力です。
★ 桜島の地名由来については,次の複数の説があります。
代表的な4つの説
① 10世紀中頃、大隅守として京都から大隅国へ赴任してきた「桜島忠信」の名に由来する説があります。桜島忠信が大隅国での任務中,ある郡司に白髪の翁がいたのを召して過去の行いを問いただしました。すると、翁は「老いはてて 雪の山をば いただけど 霜と見るにぞ 身はひえにけり」と詠みました。この詩に感動した桜島忠信は翁の罪を許し,その歌が広まったために島の名を桜島と呼ぶようになったという伝承です。
※ 仮に、国司クラスの赴任(一人複数回の転任)で地名が決まれば,日本国中大混乱します。通常,武将が領土を拝領し,下向する場合,その土地名を名乗るものです。例えば,種子島何某が赴任してくれば桜島が種子島となるが如くです。この説は論外と言えます。
② 桜島の五社大明神社の祭神が木花佐久夜姫であることから,初めは咲夜島と呼ばれていたものが、だんだん訛って桜島となったという説もあります。
※ 一般受けする説ですが,木花を取って佐久夜姫とは桜島ありきの説のようです。五社大明神社の祭神由来であれば,1625 年家久公により創建されていますので,それ以降の江戸期に作られた説でしょう。時の代官は,向島代官平山対馬守(神社誌)となっています。その後,1698年になり「向嶋ヲ桜嶋ト唱可申旨(桜島池田氏年代記)」と初めて桜島と改めています。
③ 桜島山が湧出した際に,海に桜の花が浮んでいたため、桜島と命名されたという説や,島に桜の木があったが突如山となったために桜島と名付けられたという説もあります。
※ 桜島誕生の数万年前には,桜は日本には無かったと思われます。
④ 最後に,「サ・クラ・ジマ」で,「サ」は接頭語,「クラ」は断崖や崩壊谷、または険しい斜面を指し,「ジマ」は島を意味するという説もあります。
・峻険(サ)な斜面と崩壊崖(倉・蔵)
※ 地名学的には一番納得できる説だと思います。地名表記の倉(蔵)には崖や崩壊谷を指すことが多く,「サ」には狭いという意味もあります。桜島の北岳(誕生~5000年前)と南岳(4500年前~)の斜面を見ると断崖の浸食の大きさの違いあるのは,誕生年代の違いだそうです。大雨で桜島の斜面を崩し,日本一の発生回数と言われる土石流が裾野に溜まり扇状地を形成しました。
なお、桜島の呼称が初めて使われたのは、「西藩儒林伝」(1512年)にある僧以安(1514~87)の漢詩とされているそうです。「永正9(1512)年正月。島津忠治公(第12代)が,群臣を随え舟を浮べ海諸に遊び,又舟より下りて山野に鷹放す,以安亦従い詩を賦して云う。是月,復従ひて櫻島に遊ぶ,再び官船に侍れば夕照斜めなり,蒼鷹飛ぶ處紅霞に映ず,此の遊想古今以てすべし,櫻島に首を回らせば雪花見ゆ」
※ 調査研究不足で,西藩儒林伝で以安の漢詩を確認できませんでした。しかし,この時代は群雄割拠の時代で島津一族ですら統一されておらず,神宮領向嶋の名を勝手に学僧が変更すること自体疑わしく,(藩邸の力で)江戸期の作の可能性はないでしょうか。疑ったらきりがないのですが,短い漢詩の中で敢て櫻島を二回も使っているのは意図的でしょうか。
牛根の地名由来
早崎や瀬戸崎の地名が残るように,大爆発で陸続きになる前は,流れの早い海峡があったようです。錦江湾奥の干満差は2〜3メートル程度のようです。日に二回,この狭い海峡を大量の海水が流れ込み,大隅半島側の早崎はその早い潮の流れが特徴の岬でした。全国的に海辺に「早」の字が付く地名は,海流が速い海岸沿いの地名が多いようです。その牛(潮流)の根(もと)にある豊かな漁場であったことから「牛根」と名付けたのでしょうか。(個人的な解釈です)
長島町の黒之瀬戸(日本三大急潮)は,長さ4キロ,幅約500メートルの狭い海峡で,急潮の流れや渦潮が特徴です。牛根の瀬戸海峡は,古い地図で見る限り幅が2〜300メートル,長さが1キロ程度だったのではないでしょうか。
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