徳之島初代島主「首里之衆」

・秋徳湊(亀徳港)

 「伊仙歴史民俗資料館」の資料によると,道の島(奄美諸島)が琉球の支配下に入った時期についてははっきりしないようです。琉球による大島討伐以降,奄美の島々には琉球王府から役人が派遣されたり,現地の按司を役人に任命したりしていました。それ以前の13世紀には奄美諸島が琉球に入貢した記録もあるものの,道の島(奄美諸島)まではその勢力が及んでいなかったと思われます。その後,沖永良部島と与論島が沖縄北部の北山王国の勢力圏に入り徐々に琉球の影響を受けるようになりました。また,14世紀初頭の千竃文書には徳之島を含む奄美諸島が相続対象となっているのは交易税の資料上のことのようです。奄美は「按司世」と呼ばれている時代になります。

・首里之主一統の松山墓地(伊仙町)

 奄美群島でも按司の間で武力抗争があり,強い按司が登場するようになりました。沖縄では1429年に三山が統一され,1440年頃に入ると喜界島は琉球王国から何度かの攻撃を受け,必死の攻防戦を戦ってきました。長年にわたる抵抗もむなしく,第四王統以降は実質的な支配を受けるようになりました。そして,1466年の喜界島討伐では第4王統7代の尚徳王が自ら大将として2000名の兵を率い,50艘の船団で2月25日に那覇湊を出航し,3日後に到着しました。昼夜3日間にわたる攻防でも決着がつかず,謀略によって服属させました。3月11日に島を出帆し,13日に琉球に凱旋しました(中山世鑑)。喜界島征伐は大島笠利を拠点に進行していたようで,1440年代から1450年には大島も統治下に入っていたようです。

 この戦い以降,琉球王国は奄美諸島全域を支配し,那覇湊に泊地頭(泊港)を置き,[奥渡より上の扱い(さばくり)」により,奄美・喜界・徳之島・沖永良部・与論各島に年貢の納付を命じました。奥渡とは首里より奥(沖縄北部)渡(海)の奄美群島全域を指した言い方です。

・和瀬浦(徳和瀬海岸)

その後も小競り合いが続き,1537年には第一回大島討伐で与湾大親(笠利町用安)を討ち,1557年にも第二回征討軍を派遣し道の島は概ね平定されています。これらのことから,1466年以降も大島では百年以上にわたり奄美側の抵抗が続いていたことがうかがえます。徳之島も1440年代には琉球の支配下に入っていたと思われます。その後百年以上が経過し,安定した統治下となった1562年に初代大親役(首里之衆)が6名の使者を伴って徳和瀬海岸に上陸しました。1571年の第三回討伐で,最後の北部大島討伐が行われ奄美群島は完全に王国の支配下に入りました。この時期は「那覇世」と呼ばれています。

・秋津神社

 この首里之衆とは,琉球首里から徳之島に派遣された初代大親役で,譜代(代々王家に仕える家系)高家の按司の子孫で,探題(島の政務を行う執権役)として任命された人でした。国王から「金の髪指や紫鉢巻」を授与され(王国の王子・按司に次ぐ三司官クラスの総地頭職),島主として徳之島の給地を分け与えられました。さらに,島の役人である用人,目指,掟,筆子にも土地が分け与えられました。

 首里之衆は,道の島に定住し,子供(西世之主・東ヶ之主)をもうけました。子供たちも琉球国王から官位鉢巻を授けられ,国王の前で拝礼する機会を与えられました。また,拝領物を賜り,その功績により親の跡を継ぐ役目を命じられ,忠実に務めていきました。

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