「犬田布義戦」について

 犬田布騒動記念碑の案内板によると,1864年3月18日に農民たちによる騒動が起こりました。後に「騒動」ではなく,あくまでも正義のために戦ったとされ,地元では「犬田布義戦」と変更されました。時は明治維新の4年前で,国内的には封建社会から資本主義の原点が芽生えていた江戸末期でしたが,ここ奄美諸島の状況だけは本土と乖離していました。

 犬田布騒動の原因は,「薩摩藩の収入の半分以上を占める砂糖収益を上げるために島民の引き締めるための見せしめ」でした。これは薩摩藩によるある手口でした。しかし藩政時代の終焉や西洋の新しい価値観などが徳之島の住民たちにも伝わっていた時代,代官所の政策だけが時が止まっていたみたいですね。明治4年の廃藩置県後でも,県は「大島商社」を設立し,利権を手放さなかったのは士族を保護するためだったと言われています。砂糖の自由売買を勝ち取ったのは西南戦争後のことです。

 義岡明雄氏の資料によると,結果的に3月26日に処分が下されました。指導者として処分を受けたのは以下の通りです。当事者の新山為盛(39歳)の処遇は「お構いなし(無罪放免)」という判決です。つまり濡れ衣であったことを認める判断なのです。拷問により足腰立たず,硫黄鳥島で5カ月湯治させたことは藩庁による謝罪の意味もあるのでしょう。 

①義佐美(67歳,津口横目格):沖永良部遠島 ②義仙(59歳,津口横目格):大島遠島 ③喜美武(39歳):大島遠島 ④安寿盛(36歳):与論遠島 ⑤義福(36歳):大島遠島 ⑥実静(22歳):釈放 ⑦義武(22歳,義仙長男,砂糖掛):沖永良部遠島 ⑧安寿珠:幼く代官所に願い出て父安寿盛に同行。

 150余名の農民は,犬田布・阿権・鹿浦・阿三間の道路修理の労役に3年間従事させられました。また,指導者たちも13年間の遠島の刑に服し,明治9年(1876年)に帰島しました。これらの罪は代官所に反乱を起こした罪に対するもので,原因の新山へのでっち上げや拷問は取り上げられていませんでした。なお,附役の寺師次郎右衛門はこの件で藩に呼び戻され,代わりに根占助右衛門が来ました。

※ 犬田布騒動記念碑の案内板より

・ 時は,薩摩藩が島の砂糖を全て買い上げ独占していた時代のこと。但しお金で買うのではなかった。島民は金銭の使用を禁じられていた。もっぱら砂糖生産のためだけに働く奴隷の如き生活を強いられていた。前年の台風のため塩害で砂糖の出来が役人の見積もりに達しなかった。「福重」という老齢の村民が「砂糖隠匿・密売」の嫌疑をかけられた。取調べは島民への見せしめのための苛酷きわまる拷問である。老齢の福重に耐えられるものではない。そこで,福重の姪の夫の「新山為盛」が身代わりとして拷問の取り調べを受けることになった。
 1864年3月18日,砂糖取締役寺師次郎左衛門が,砂糖隠匿のかどで為盛を取り調べた。寺師は「砂糖をどこに隠したか,誰に密売したか」と厳しく追及した。為盛は,「砂糖を隠してもいないし,売ってもいない」と毅然と答えた。
 寺師は思い通りにならない為盛を薪の上にひざまずかせ,膝と太ももの間に薪を入れ,その上に重石(碾臼)を乗せ,下級役人に棒で前と後ろから打たせた。為盛は歯を食いしばって「砂糖を隠していない。密売していない」と大声で叫んだ。拷問はいっそう厳しくなった。ついに,為盛の鼻や口から血が流れ落ちた。それでも為盛は一族のため,「義」のために耐えた。無実の罪を強要する非道の権力と命懸けで闘った。
 この為盛の姿を目の当たりにして,島民たちの心に義憤が爆発した。「為盛を助けろ,役人を打ち殺せ」犬田布の島民たちは,棒を片手に拷問現場を包囲して叫んだ。その中には島役人もいた。島民たちの殺気に驚愕した寺師以下役人たちは,裏門から馬に乗って一目散に逃げた。
 為盛は拷問から救い出されたが,島民たちはしばらくして,全員死罪になることを悟り,代官たちと決死の戦いを決意し,戦闘態勢に入った。代官側は心理作戦に出て,「解散しなければ罪は9代の親族にまで及び,家族ぐるみで死罪にする」と宣伝した。島民側は次第に一人去り二人去りと崩れて
いった。8日間頑張った首謀者の5人は島外脱出を図ったが失敗。全員捕らえられた。5名の名は,義仙・義武・義佐美・義福・実静であった。義仙と義武は親子で共に役人だった。義のため身命を賭して闘った為盛の先祖は今から400年前の1609年3月20日,薩摩軍が秋徳湊(徳之島町亀徳)に侵攻した際,薩摩に「君臣の義」を理路整然と説き,義の為に戦い倒れた義人英傑の「佐武良兼(さぶらがね)」である。                        伊仙町観光協会

□ 戦国最強軍団の島津氏は,戦国武将の最強・人気武将ランキングでは,上位に挙がることは少ないのです。為政者の最大の仕事は住民のためにどんな施策をしたかであると言われます。島津氏が専門家に評価されない理由として,住民統治の醜さが挙げられます。本土の地方史を紐解くと,島津氏の歴史にはない数々の残酷な言い伝えが残っています。特に奄美群島において,薩摩藩は「砂糖総買入制」や「抜糖死罪令」を実施し,島民の砂糖の保有や売買を禁じ,違反した島民には厳しい罰則を科しました。そして見せしめのための残忍な殺し方など事例が多く残っています。

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