薩摩は古来より全国的にも有名な馬の産地であり,馬屋奉行を置き,最盛期には藩内に20カ所の牧があったと言われています。県史料集によると,江戸後期には,福山牧や長島野の大牧場の他に,吉野,鹿屋,頴娃などの中規模牧場を含む17カ所で,合計6,000頭を超える馬が飼育・放牧されていました。
頴娃野と唐松野
このうち,頴娃の牧は「頴娃野(牧神岳~兵児岳)」と北側の「唐松野(新牧地区)」の二カ所がありました。頴娃野は地頭館から南南東に約4キロの牧之内村にあり,周囲は約2キロでした。毎年,駒馬を納める際には,一頭を開門神社へ奉納していたと言います。
牧と苙口(オロングチ)
矢筈岳山頂近くに頴娃城跡(獅子城・野首城)があります。この城は頴娃から山川,揖宿まで治めていた伴姓頴娃氏の居城でした。その頴娃城から池田に出る荷辛路峠を下った近くに「苙口」という地名があります。苙(オロ)とは,牛馬を放牧する「囲い(おり)」を意味し,広い土地に柵を設置するのが困難なため,尾根や土手を利用した地域のことです。
・喜入の苙
頴娃町郷土誌によると,苙口は矢筈火山群の東南側断崖の地形を生かした場所で,その入り口の窪地を苙口と呼びます。「オロ」は「於呂」「小路」「尾路」などの当て字が使われ,薩摩藩内では,馬を放牧する方形の柵(おり)を指し,放牧地域に「牧」や「牧野」「苙口」などの地名が残っています。
また,各地に残る「苙」は,藩政時代の牧経営や「馬追い」の施設跡でもあるのです。馬追いは軍事訓練も兼ねており,近くの頴娃や揖宿,知覧などから串目立(馬を苙に追い込む役目の人々)を参加させていました。馬追いの際の追込み場であり,追込み口は左右とも約10メートルの長さで外に向けて開いており,放牧馬群を追い込みやすいよう工夫されているのが特徴でした。その中の小さな苙は二歳馬の選別場として活用されていました。