頴娃町別府・松原校区の歴史③~耳原六地蔵塔について(その1)~

耳原六地蔵塔とは

 南九州市頴娃町別府には,市指定文化財・耳原六地蔵塔があります。山川石で作られており開聞町や指宿市にある六地蔵塔に似ていますが,建立された年代や支配関係等からむしろ加世田の六地蔵塔と近いものと考えられています。

 六地蔵塔は,戦国時代から江戸時代にかけて流行した供養塔の一つで,特に九州地方では,旧渋谷氏領の川内川流域や旧肝付氏領の大隅地域など,戦国期に島津氏と争った戦場に多く見られます。また,藩内の有力武将や薩南学派の学僧たちが関わった碑文を調査することで,戦国期に散った武士たちだけでなく,彼らと共に生きた農民たちの生活が垣間見え,当時の様子を知る手がかりとなります。

地蔵塔を建立した自畊について

 地蔵信仰は,天変地異や戦乱で多くの人々が命を落とした戦国時代に盛んに信仰されていました。地蔵塔は,墓地や街道沿いに建てられ,一族の安泰や死後の極楽往生,子孫繁栄を祈願して造られました。

 耳原六地蔵塔は,建造物としてだけでなく,歴史資料としても価値が高く,市の文化財に指定されています。この地蔵塔が建立された年代は室町時代とされていますが,建立者である自畊の着任時期や当時の状況から,おそらく1540年前後ではないかと考えられます。

 塔の正面左下には「自畊」の文字が見えますが,これがこの地蔵塔にとって最も重要な歴史資料と言えます。自畊とは本名を村田泰年といい,桂庵玄樹の弟子にあたる人物です。自畊の兄である「舜田耕翁」も同様に桂庵玄樹の高弟で,いろは歌で有名な島津日新公の師匠にあたる人です。

・自畊の文字

 

 1537年,自畊は頴娃の領主である頴娃兼洪に招かれ,島津氏の菩提寺であり,曹洞宗の末寺である平源山証恩寺の第11世住職となりました(『西藩儒林伝』より)。頴娃では,先代の頴娃兼心の頃から儒教が広く学ばれており,そのために著名な「祐田自畊」を僧として招いたのでした。当時の寺院は,現在の学校や図書館,役所のような役割もありました。約500年前,松永や耳原のお寺でも,孔子の言葉「子曰く,友あり遠方より来る,また楽しからずや…」などが大きな声が聞こえていたのかもしれません。

 中世の学問は,中国語(文法が異なる漢字原文)で講義されていたため,一般の人々には理解が難しいものでした。そこで,桂庵玄樹は日本語として読めるように,送り仮名や返り点を加えた訓読法「桂庵点」を考案し,音読を重視した学問として広めました。当時の薩摩は,全国の中でも最先端の漢学が学べる地であったのです。

 江戸時代の学問の中心は朱子学(官学)でしたが,その百年以上前から,薩摩では桂庵玄樹の学派(薩南学派)が漢学を教えていました。当時の漢学の大家・藤原惺窩は,訓読法を確立するために中国へ渡ろうとしましたが,頴娃氏領の証恩寺(頴娃)や正龍寺(山川)で既に漢学の教授法が確立されていたことに驚き,山川の正龍寺で桂庵の訓読法を書き留めて留学せずに帰国しました。その後に「惺窩点」が考案されて,現在の訓読法の元となったとされています。

六地蔵塔の碑文について

 耳原六地蔵塔には「頴娃郡有小縣名曰耳(原という文字が欠けたわけではなく,文の文字数から「耳」と解読するのが適切と思われます)」と刻まれています。これは,証恩寺の末寺である宝持庵が建立される以前,この地が「耳」と呼ばれていたことを示しています。「耳」という地名は奈良時代から使われており,パンの耳の語源と同じく,「淵・端」を意味します。

 「別府」とは,太宰府から特別な符宣(この許可札を「別符」と呼びます)を受けて開墾された土地のことで,南薩など九州の端に多く残っています。平安時代には,豪族たちは土地を貴族に寄進し,荘園として無税にしてもらっていました。「原」は広い平地を意味しますが,「ハリ(墾)」の意味で開墾地を指し,「別府」と同様に開拓地を意味します。別府という地名は,太宰府の影響が色濃く残る室町時代までさかのぼる古い地名といえます。大分県別府市をはじめ,九州の端に多く見られます。

 戦国時代末期の文書に「御領村民原(民原は方言で,「大耳原」の文字を用いる)」という記録が残っています。廃仏毀釈により多くの仏像が破壊されましたが,耳原六地蔵は非常に珍しいものです。この六地蔵は,六道(①天国,②人間,③修羅,④畜生,⑤餓鬼,⑥地獄)それぞれを司る地蔵が彫られています。

 一般的に六地蔵は浮き彫り(レリーフ)で作られることが多いですが,耳原の六地蔵は線刻(線で彫られた)であり,他のものとは異なります。これは,銘文に重きを置いた石仏であったためと考えられます。

六地蔵塔の各面イラスト

各面の地蔵像の特定について

左手の持ち物右手の持ち物六 道
第一面錫杖(地獄の檀陀地蔵)地 獄
第二面経箱(修羅の持地地蔵)幢幡・与願は宝珠地蔵(餓鬼)餓 鬼
第三面柄香炉三鈷杵畜 生?
第四面念珠施無畏印修 羅?
第五面宝珠施無畏印(人間の除蓋障地蔵)人 間
第六面宝瓶宝剣天 上?

 仏像の手を見ると,手や指を組み合わせた形(印)によって,ご利益や働きが異なります。六地蔵の印は「施無畏印」で,「安心を与え,願いを聞き入れる」という意味を持っています。宝珠は地蔵様がよく持つ持物で,「すべての願いを叶える」力を象徴しています。三鈷杵(さんこしょう)は金剛でできた武器で,先端が三つ叉に分かれており,そこから稲妻が発するとされています。宝剣は,深い迷いや煩悩を断ち切る剣であり,それぞれの持物には特定の意味があります。

 地蔵様の尊顔は廃仏毀釈で削られているため,詳細は分かりませんが,仏像が持つ持物(経箱・柄香炉・念珠・宝珠・宝瓶・錫杖・幢幡・三鈷杵・施無畏印・宝剣など)や印相(手や指の組み合わせ)から,六道を司っているそれぞれの地蔵様を特定できます。鮮明でない部分が多くはっきりとは言えませんが,正面に位置する檀陀地蔵(地獄)を中心に,右回りに宝珠地蔵(餓鬼),宝印地蔵(畜生),持地地蔵(修羅),除蓋障地蔵(人間),日光地蔵(天国)であると考えられます。(※要再調査)

碑文の文字について

内第1面  ・・・・・・・・・・・相沸身全
仏の身体は消滅しても教えが人間救済になる
・・・・・・・・・・衆生済・・
衆生済度(迷い苦しみから人間を救って悟りの世界に導くこと)
切第1面  ・・・・・・頴娃郡有小縣名曰耳
頴娃郡に耳という集落がある(15文字・切り方等から耳原ではない)
内第2面  ・・・・・・衛門尉并村人意・朴
左衛門尉(島津初代忠久)並びに村人も
・・・・・・・・総九族連連敬相
親族が絶えることなく続くことを願い
切第2面  ・・・・・・・写經和始天王寺守
四天王寺の経典を写したもの功徳ある石柱です
内第3面  ・・・・・・石廟一基泰刻彫 六
六道の地蔵様を彫った霊を祭る石柱を一基
・・・・・・・・利國家太平絶狼
世の中が平和に治まり穏やかであり,狼狽える人がいない世である
切第3面  ・・・・・・・・・恵賢賢崇敬神
非常に賢い神を敬い,その恵みにあやかる
内第4面  ・・・・・・・期是常行三昧即今
すぐに,仏の回りを唱えながら念じ90日間歩いて仏心を入れました
・・・・・・・・一輪明月天
曇りなく澄み渡った満月のように
切第4面・・・・・・・証恩現住自畊謹誌
証恩寺の住職自耕が謹んで誌しました。

 上記碑文の内容と四天王寺の経典等からのあくまでも推測の現代語訳文です。大まかな内容は他市町の地蔵塔碑文と同じような内容になります。

耳原六地蔵碑文の現代語訳(推測)

 頴娃の淵にあるこの地が開墾され,多くの人々が集い,平和に暮らしていました。しかし,戦乱や天変地異によって,多くの命が失われ,人々の悲しみも大きなものとなりました。仏の教えを守り,人々を救済することが何よりも大切です。迷いや苦しみから人々を救い,悟りの世界へと導いていきましょう。

 頴娃郡には「耳」と呼ばれる地域があります。この碑文に刻まれた教えは,島津初代忠久公から受け継がれたものであり,村人たちも同じ願いを持っています。人々が平穏無事に暮らし,親族が絶えることなく続く世が実現することを望んでいます。この碑は,四天王寺の経典を写した功徳ある石柱です。数々の戦や天変地異で亡くなった人々の極楽往生を祈り,今の世が平和で穏やかに治まり,狼狽える人がいない世にしていきましょう。

 非常に賢い神を敬い,その恵みにあやかれるよう,ここに六道の地蔵様を刻み,霊を祭るための石柱を一基この地に据えました。常行三昧(仏の回りを唱えながら念じ90日間歩いて)して仏心を入れてください。どうか皆様も,心を澄ませ,満月のように穏やかで清らかな世が訪れるよう,この地蔵塔に祈りを捧げてください。証恩寺の住職,自耕が謹んで誌しました。

・「常行三昧」「一輪明月天」

 この時代は戦国期であり,頴娃氏も島津氏と共に多くの戦に出陣していました。新たに開墾された耳原・小耳原(小原)の地からも,戦にかり出された者たちがいたことでしょう。同時に,風水害や地震,干ばつ,疫病などで亡くなった人々の供養も行われたと考えられます。

 鹿児島県内には,いくつかの六地蔵塔が現存しており,同様の伝承が残されています。自耕の兄である舜田も,同じく桂庵玄樹の高弟であり,加世田の日新公と深く関わりのある人物です。耳原の六地蔵塔は,その石造様式や当時の状況から見て,開聞・山川の塔と並び,加世田の六地蔵塔とも深い関係があると考えられます。

・ 参考・引用文献

 頴娃町郷土誌・頴娃町文化財調査報告・加世田郷土誌・山川史・知覧文化・薩南文化・日本石仏石柱辞典等

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