父の戦争体験 戦艦大和の護衛艦「涼月」

軍艦防波堤

 今年の3月,北九州市にある軍艦防波堤を訪れました。義父が乗艦していた駆逐艦「涼月」や「冬月」「柳」の船体が防波堤として使われているからです。戦後,昭和23年にこれらの船体は岩石や土砂が詰め込まれ,コンクリートで固定されたそうです。「柳」の船体は堤防の一部として確認できましたが,「涼月」と「冬月」は埋立地に埋められており,確認することはできませんでした。

不沈艦「涼月」

 「涼月」は戦争中に三度もの壊滅的な被害を受けましたが,そのたびに生還しています。昭和19年1月16日(日向灘で触雷し,200名以上が戦死),同年10月16日(日向灘で再度触雷し,数名が戦死),昭和20年4月7日(坊ノ岬沖での爆撃により,50名以上が戦死)という状況でした。そのため,「不沈艦」としての伝説が生まれました。戦時中,乗組員は400名以上に増員されていましたが,その半数以上の乗組員が戦死しました。義父も何度も死の危機に直面していました。特に「坊ノ岬沖海戦」では,戦艦大和の護衛艦として沖縄戦水上特攻の作戦命令を受けており,本来ならば佐世保に帰還することはあり得なかったはずです。しかし,当時の艦長の英断により後進での帰還が決定され,多くの若い兵士が東シナ海で命を失うことを免れたのです。

 帰還命令が出た後,前進が不可能となったため,父は数名で後方甲板で見張りの任に就いていました。坊津沖から佐世保までの400キロに近い道のりを,乗員たちは浸水や火災を必死に防ぎながら進んだそうです。途中,うっすらと島影(甑島?)が見えたそうです。暗闇の中,延焼する船体が米軍機に発見されたら,一巻の終わりです。コンパスも操舵も失い,四分の一の速度で後進しながらの航行は,極度の緊張を伴うものでしたが,不思議と恐怖心はなかったそうです。この決戦で命を落とした4,000人を超える人々は,「沖縄にいる日本人のために戦う」という決意を胸に出撃したことを忘れないでほしいのです。

・駆逐艦涼月(枕崎火之神公園)

 義父が平成18年に80歳で亡くなってから,今年で18年目になります。父は寡黙な人で,戦後は警察予備隊を経て自衛隊で勤務していたこともあり,戦争についてほとんど語ることはありませんでした。しかし,ある日,酒を酌み交わしている際に私が「貴重な戦争体験は後世に伝えるべきだ」と言うと,少しずつ「涼月」での出来事を語ってくれたのです。

男たちの大和

 昭和18年,義父は志願兵として18歳で佐世保海兵隊に入隊し,護衛艦「涼月」に配属されました。20歳までの3年間,主に機関室周りの業務を担当していたそうです。終戦が近づくにつれ戦闘が激化し,戦友や上官が目の前で次々と命を落としていく光景が義父の記憶に深く刻まれました。そのため,辛い経験を語るのをためらっていたのでしょう。特に印象に残っていたのは,戦艦大和が沈んだ坊ノ岬沖海戦についての話でした。

 ちょうどその頃,「男たちの大和」という映画が上映されており,子どもたちに勧められて渋々観に行ったそうです。公開前,父は戦争の記憶が蘇るのを恐れて観るのを嫌がっていましたが,家族の勧めでようやく足を運びました。映画を観終わった後,「どうだった?」と尋ねられると,「大和の甲板や船内は映画の通りだった」と,嬉しそうに話していたのを覚えています。

・涼月

戦艦大和と共に戦った坊ノ岬沖海戦

 義父が「涼月」に乗務していた頃の楽しい記憶として,しばしば「大和」に艀(はしけ)で移動し,そこで食事や入浴を楽しんだことを挙げていました。もちろん「涼月」にも食堂や風呂はあったのですが,これは大和軍団の結束を強めるための措置だったのでしょう。映画の戦闘シーンも非常にリアルで,当時の記憶が鮮明に蘇ってきたと話していました。大和の戦闘シーンを観ながら,「涼月」での当時の様子を思い出していたようです。戦友たちが次々と命を落としていく光景が蘇り,なぜか悔しさと無念さがこみ上げてきたと言っていました。

 義父が最も危険な状況に直面したのは,坊ノ岬沖で米軍機による奇襲が始まったときのことです。隊員たちは持ち場に急ぐため一斉に階段を駆け上がり,義父もそれに続いて甲板へ向かおうとしました。まさにその時,上官に呼び止められ,「お前は右手後方の砲台に回れ」という,当初とは異なる命令を受けたのです。そして,戦友たちに追いつき階段を登り切った直後,敵機の爆弾が数メートル先にいた友人に直撃し,その体は真っ二つに裂けて即死したそうです。もしあの時,上官に呼び止められていなければ,義父も確実にその犠牲になっていました。

 平成18年1月,義父は亡くなる4カ月前にこの映画を観ました。その年の5月5日,脳溢血で突然亡くなりましたが,苦しむことなく静かに息を引き取りました。生前,義父はよく「父も母も祖父も80歳で亡くなっているから,自分も80歳で迎えが来るだろう」と話しており,実際にお墓も新しく作り直していました。特に持病もなかったので,家族は長生きするだろうと思っていましたが,その言葉通り,義父は80歳で天に召されました。苦しむことなく,覚悟を決めた上での大往生だったのだと思います。その6年後,義母もやはり80歳で亡くなりました。

 戦後しばらく佐世保に留まっていた父は,ようやく3年ぶりに帰郷することができました。その後,警察予備隊を経て海上自衛隊に所属し,定年まで勤め上げました。若い頃,家族と共に佐世保の海上自衛隊基地で勤務していたこともあります。佐世保は,父にとって何度も死を覚悟し,死の縁から生還した後,初めて踏んだ本土の地でもありました。

タイトルとURLをコピーしました