「大石内蔵助になるな」
私が初めて教頭になった年の夏,妻の叔父夫婦から飲み会に誘われました。叔父は自衛隊の鹿屋基地に勤務しており,岩川飛行場の「芙蓉飛行隊の美濃部指揮官」についても調査して詳しく知っていました。それまで戦時中,県内に特攻以外の飛行場が存在していたことさえ知りませんでした。また叔父は当時自衛隊の幹部隊員であり,組織におけるナンバー2の役割に関して強い持論を持っており,その席で開口一番,「大石内蔵助になるな」と言い出したのです。
大石内蔵助といえば,毎年年末に放映される忠臣蔵でお馴染みの人物です。鹿児島では,忠臣蔵が主君に対する忠誠を教える教材として郷中教育に取り入れられ,毎年輪読会も行われています。特に「忠臣蔵」における大石内蔵助の評価は,事件後浅野家再興に努め,主君の汚名を返上するために戦っていく義理や忠誠心の深い家臣として称賛される一方,30代の経験浅い主君への助言不足で筆頭家老としての職責を果たしていなかったという相反する意見もあります。
管理職の結果責任
叔父が強く語ったことは,「大石がナンバー2としての職責を十分に果たしていれば,あの事件は未然に防げた」という見解でした。主君である浅野内匠頭が初めて幕府の仕事に関わる際,筆頭家老として当時の習わしや決まり事を徹底的に調べ,人脈を生かし他藩の担当者から祭事の情報を集めていれば,吉良上野介の人となりや必要な祝儀額なども把握できたはずです。そして,それを浅野内匠頭に報告し,心の準備をさせていれば,事件は防げたのでしょう。叔父は,そもそも大石にはそうした情報網すら無かったのではとさえ指摘していました。
立場上,ナンバー2のポジションには多くの情報が集まります。学校の教頭職もまさにその役割です。学校を良くするために,子どもたちや教職員,保護者,地域の方々からさまざまな情報が入ってきます。その情報を精査し,具体的な対策を立て,校長に「報告・連絡・相談」することで職責を果たすことになります。先輩たちからは「アンテナを高く」とよくアドバイスを受けてきましたが,その話を叔父にしたところ,「アンテナを高くするだけで満足していることが多い」と言われました。続けて,「さらにネットワークを広げ,必要な情報を自ら取りに行かなければならない」と教えられました。正直,自衛隊の防衛論のように感じていましたが,叔父はさらに「危機管理に必要な情報は,自分が教室や校庭,地域社会に出向き,直接関わって初めて得られる。そうすると,自然と向こうから飛び込んでくる」と続けました。
上司の性格やタイプは様々であり,浅野内匠頭が短気で独善的であったとしても,家老として若い主君が江戸城に登城する際はしきたりや高齢の吉良上野介への接し方について十分に諭しておくべきであったと続けました。叔父はさらに,「もし薩摩の山田有信や新納旅庵が家老だったなら,決してこのような事態には至らなかっただろう」とも述べていました。
「昼行燈」と揶揄された大石は,人を巧みに動かすことが苦手で「報・連・相」が十分に出来なかったのでしょう。その結果,最悪の事態を招き,藩は取り潰され,大石自身も切腹することになりました。江戸城内での刃傷沙汰は幕府の重大な法度違反で,本来なら切腹さえ許されなかった可能性もあったのです。彼の実績は徳川幕府の悪政に批判的な庶民の間で美化され,歴史に名を残しましたが,多くの藩士やその家族を路頭に迷わせた責任者であり,「結果的に藩を潰した最悪のナンバー2」と言っても過言ではないと叔父は断言したのです。例えトップが如何に悪くとも組織である以上,大石は唯一主君をいさめる立場にあったはずです。現在でも組織の管理職は常に結果責任を問われます。トップに従いつつも、ナンバー2は自らの判断で組織を守り,適切な行動を取る必要があるのです。
もちろん大石は家老として実績を残し,多くの歴史ファンもいるです。確かに四十七士は武士としての誇りを保つことができましたが,それ以外の赤穂藩の藩士やその家族の多くは路頭に迷ったのも事実です。切腹できた浪士の家族もまた同様に苦境に立たされました。
「岩川飛行場」芙蓉飛行隊の美濃部指揮官
叔父が「大石内蔵助になるな」と強調してまで伝えたかったことは,実は岩川飛行場の美濃部正指揮官についてでした。ナンバー2でもなかった美濃部指揮官が,戦時中の絶対的な特攻命令の中で身命を賭して意見を通し,特攻によらない夜間銃爆撃飛行隊を実現させ,復員兵の生還を可能にしたことは奇跡に近いものでした。彼の信念と行動は,後々多くの若い兵士の命を救ったのです。
叔父の教えである「上司と部下をうまく繋ぎ,組織の運営をスムーズにすること,そして十分な情報を伝え、適切な判断を促すこと」は,教頭職の難しさを痛感させるものでした。その言葉は私の心に深く刻まれ,教頭としての役割に苦悩する日々が続きました。ナンバー2の立場がいかに重要であり,同時にどれほどのプレッシャーを伴うものかを、身をもって経験したのです。しかし,教頭職というナンバー2の役目が本当に理解できたのは,校長になってからでした。ただナンバー2は大変ですが,一番遣り甲斐のある時期でもありました。
今回,早田ひな選手の発言からネットやテレビで知覧のことが報道され,岩川飛行場のことを思い出し,ようやく訪れることができました。長年抱えていた思いを再び呼び起こし,その歩みを振り返る貴重な機会となりました。
戦闘機・彗星(夜間銃爆撃機)について
八月の暑い日,佐世保海軍岩川飛行場跡(曽於市大隅町月野)を訪れましたが,周囲を見回しても飛行場というより牧場のような感じでした。この基地からは生きて帰れぬ特攻隊ではなく,夜間銃爆撃として「彗星」が飛び立った飛行場で,復員兵も多くいたことが驚きでした。
太平洋戦争も昭和19年に入ると,各地で苦戦を強いられるようになりました。軍部はその打開策として特攻作戦を採用しましたが,状況は好転しませんでした。その頃,東南アジアやフィリピン方面を転戦していた海軍飛行隊の少佐が,特攻による成果が芳しくないことを進言し,特攻ではなく夜間部隊の編成を認めてもらいました。その結果,静岡県の藤枝基地で編成されたのがこの飛行隊です。
米軍にチェックされていた飛行場
この特殊部隊は「芙蓉部隊」と名づけられました。部隊名は,静岡県の藤枝基地から望める富士山の雅称「芙蓉峰」に因んでいます。富士山は古来より「富嶽」や「不二山」など,百以上もの呼び名があり,尊崇と信仰の対象とされてきました。その中でも「芙蓉」とは,優雅な呼び方で「二つとない神秘的で美しい山」という意味が込められているそうです。
芙蓉部隊は鹿屋基地から進出しましたが,米軍の激しい攻撃に対処するため,昭和19年からは岩川飛行場から彗星飛行機を主力とする夜襲隊が次々に沖縄方面へ出撃しました。この作戦は終戦まで続き,百余名の戦死者を出す結果となりました。この「芙蓉之塔」は,昭和45年に戦死者たちの慰霊のために建立されたものです。
滑走路として使用したのは,幅80メートル,長さ1300メートルに限定されていました。飛行場であることを悟られないようにするため,昼間は滑走路全体に刈草を敷き詰め,移動式の建物を2棟,樹木を数本立て,さらに牛を10頭放して牧場に偽装していました。そのため,終戦まで米軍に発見されることはなかったとのことですが,実際は当ブログ8月10日号の「県内の戦争関連施設跡」の「まのひ」飛行場同様,米軍にしっかりチェックされていました。
復員された方々
案内板によると,「芙蓉之塔」は滑走路の発着地点に建立された慰霊塔であり,太平洋戦争末期の4カ月間に岩川飛行場から出撃し,帰還しなかった87名を含む,芙蓉部隊の105名が祀られています。近くには,本部や通信壕,発電壕,佐世保海軍施設部跡などが現在も点在しています。使用された飛行機は「彗星」と「零戦」でした。なお,未帰還機は53機だったそうです。また帰還兵が多く存在する点が,知覧の特攻基地と大きく異なります。正に「芙蓉」の名の通り,二つとない崇高な使命を持つ,美しい飛行部隊であったのです。
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