第1次129日,第2次147日 計276日
最近の領海侵入等の報道を聞くにつれ,本県の海岸線の長さは観光資源であると同時に,防衛上の課題としても日頃から考えておくべきことだと思うのです。無人島を除けば,本県の長い海岸線はすべて小学校区が含まれており,子どもたちにとっても身近な場所となっています。また,その海岸線には全国で最も多くの小学校を擁しているのです。伊能忠敬の測量隊が本県を二回訪れ,他のどの藩よりも多い276日間をかけて測量を行ったことも,この地の重要性を物語っています。今回,第1次の129日間の日程でどこの小学校を通ったのか紹介し,もしその中に読者の方の母校があれば,更に海岸線を身近に考えていただけると思います。
鹿児島測量
鹿児島での伊能忠敬による測量は,二度にわたって行われました。第1次測量は,1810年6月に志布志から開始され,大隅半島,薩摩半島,甑島,長島,獅子島まで主に海岸線の測量が行われました。10月16日には獅子島から天草に渡り,延べ129日間に及ぶこの測量は終了しました。
第2次測量は,1812年2月26日に伊佐郡から開始され,主な目的である種子島や屋久島の測量が行われました。屋久島では3月27日から4月25日まで,種子島では4月26日から5月22日まで測量が続けられました。
第1次の129日間に加え,第2次の147日間を合わせると,合計276日間という全国でも最長の測量期間となりました。これは,鹿児島の長い海岸線に加え,種子島や屋久島の測量が必要だったため,測量が延期され再度行われたからです。さらに,38日間にわたる風待ちの逗留もありました。当時,測量には藩の船や人夫が使用されており,藩庁にとってもかなりの負担となっていたのです。また,伊能は高齢で持病もあったので,もし藩内で万一のことがあれば大変です。藩は医師を待機させ駕籠を用意していたそうです。
鹿児島測量ルートについて
最初の鹿児島での測量は,1810年6月9日から始まりました。まず本隊は日南海岸を南下し,志布志から鹿児島の測量を開始しました。内之浦から鹿屋を経由して大隅半島を横断(横切り測量)し,大隅半島の西側を南下して佐多岬まで測量しました。一旦,内之浦に戻り大隅半島南東地域の測量を連結しました。その後,再び大隅半島を横断し,垂水を経由して錦江湾北部を回り,6月23日に鹿児島城下に到着しました。
支隊は,飫肥で本隊と別れ,都城方面の街道を測量し,その後福山から都城方面へ進み,先に述べた測線と連結しました。
鹿児島では桜島測量を含めて10日間滞在し,恒星と木星の観測も行いました。その後,薩摩半島の東岸を南下し,7月8日に山側湊に到着しましたが,当初の目的であった屋久島と種子島への渡海は風向きに阻まれたため,予定を変更して枕崎方面へ向かいました。薩摩半島の南岸と西岸の半分を測量した後,串木野から甑島へ渡りました。8月1日から18日まで甑島の測量を行い,その後串木野に戻りました。本隊はここから海岸線を北上し,一方で支隊は鹿児島を経由して肥薩街道を通り,肥後に入りました。両隊は合同し,獅子島から天草へ渡り,11月12日に天草全島の測量を終えました。
※ 種子島・屋久島への渡海は季節風などにより難しく,打合せの段階から非常に困難なことを幕府に上申していました。しかし,幕府による回答は必ず実施せよであり,薩摩藩主に対して「時候を見て二島を測量させるように」通達がされていました。薩摩藩としてもこの幕命による測量を何としても成功させるプレッシャーがあったのです。
第1次鹿児島測量と通過した小学校区
第1次測量鹿児島測量(支隊)日程
隊員の一人青木勝次郎は絵師で,鹿児島でも測量沿道の風景絵を担当していました。有名な伊能忠敬の肖像画も青木によるものなのです。