平安末期の大隅半島南側には,島津荘の禰寝院北俣(大姶良)と,大隅正八幡宮領の禰寝院南俣(佐多・田代)という場所がありました。現在の錦江町(大根占)と南大隅町(根占)にあたります。この地が,ねじめ正一のルーツである禰寝一族の由来の地なのです。
禰寝一族の流れ
『さつま歴史人名集』や『旧記雑録・禰寝文書』によると,かつて大隅半島南部の根占を領していた禰寝氏は,後に「幻の宰相」と称された小松帯刀に繋がる名門一族です。
禰寝院の南側に位置する佐多・田代は「大隅正八幡宮領」であり,北側の大姶良は「島津荘」でした。禰寝氏の出自については,もともと平安期の大宰府の在庁官人(郡司)である建部一族がこの地を治め,禰寝氏を名乗ったことに始まると言われています。
1203年に鎌倉幕府によって小禰寝院(南大隅町,錦江町)の地頭に任命された清重を禰寝氏の始まりとしています。根占町の諏訪神社の背後にある山「富田城」を本拠地とし,戦国時代まで大隅半島南部を所領としていました。その後,禰寝氏は禰寝院北俣(大姶良)まで勢力を拡大し,領有しましたが,1573年に島津氏に敗れ,その傘下に入りました。1595年秀吉により,禰寝本家は吉利へ召し移され,根占の地を失い,16代目の時に小松へと改名しました。(事実上,薩摩の禰寝本流は終わったのですが,分家の流れは全国に広がっていきました。)
禰寝氏の支流も多く,根占の地名に残る山本氏(山本権兵衛)や,佐多,田代,西本,宮原,山本(山本権兵衛),川北宮原池端(加山雄三),武(武豊)氏なども禰寝一族に連なるとされています。
根占と禰寝の地名由来について
市町村合併前の根占町は,大根占町,田代町,佐多町に接し,西側は錦江湾に面していました。町域は,雄川流域の扇状地や海岸地帯,台地から構成されており,雄川河口は古くから港町として発展していました。この地域の地名由来として,まずこの地域の地形から見ると,根占は,「肝属山地の付け根に位置する雄川河口の大きな入江の地域」と考えられます。 しかし,禰寝院は,古代の大隅国禰寝郷で,すでに平安時代中期の『和名抄』には郷名として記載されており,北側の大禰寝(北俣郡本,浜田,大姶良)と南側の南禰寝(南俣郡本,田代,佐多)にから成り立っていたそうです。つまり,佐多岬まで含み海に面した地名として考えるべきなのでしょう。
「根占(ねじめ)」の語源について,まず「根占」の字義的な解釈として,広辞苑によると,
「根」には,①山の頂(峰・嶺)や麓,②地中や根本,③地盤の石積み,さらには④山麓に沿った地域を指す意味があります。 「占」には,①領有・占領や②土地の標示という意味があり,特定の領域を指す際に使われます。 |
すなわち,「根占」という地名は,山麓や河川域に沿った土地を表している可能性が考えられます。禰寝院(根占・佐多)は肝属山地が海岸近くまで迫る地域に位置し,神の川や雄川などの河川流域に沿ってわずかな平地が開けているため,特に「山麓に沿った河川域」という解釈が成り立ちます。
また,佐多地域まで含むと「根」は「おおもと」,「占」は「場所」を意味することから,地理的には「佐多岬の付け根にあたる場所」と考えられます。
以上を踏まえて,
「根占(ねじめ)」の語源について,まず「根占」の字義的な解釈として,「根」は「おおもと」,「占」は「場所」を意味することから,地理的には「佐多岬の付け根にあたる場所」と考えられます。しかし,「禰寝(ねじめ)」という当て字には,さらに深い宗教的な意味が込められている可能性があります。「禰」という字は,「祖先の霊を祀る御霊屋を指し,古くから祖霊信仰」に用いられてきました。「寝」は,単なる眠りを意味するのではなく,「祖霊が神の力を得て願いを叶えるという宗教的な意味合い」を持つと考えられます。 つまり,佐多岬(岬信仰)から望む大海を前に,祖霊や神の力を授かる場所としての信仰的な意図があったのかもしれません。大海や岬は,自然崇拝や祖先崇拝の象徴とされることが多く,この地域でも祖霊や海の神を祀る伝統が存在していた可能性があります。したがって,地名「根占」に充てた禰寝の氏名には,岬から広がる海と,「子孫を見守る祖先や神々の力との繋がりを象徴する宗教的な願い」が込められていたのではないでしょうか。 平安末期に根占の地に渡ってきた建部姓禰寝一族は,岬から海の彼方を望み,神々に見守られた理想郷を築こうと願ったのでしょう。この考え方は,神話や奄美・沖縄の「ニライカナイ伝承」にある,祖霊が守護神として生まれ変わる場所,つまり祖霊神が生まれる場所という発想に通じています。 海の彼方に昇る太陽や沈む夕日を見て,誰しもそのような思いを抱くのではないでしょうか。その後,禰寝氏は雄川河口から南方との貿易を通じて勢力を拡大していくことになります。 |
※ あくまでも個人的な解釈です。
薩陽武鑑「禰寝家」
江戸初期に作られた「武鑑」は,大名や旗本,幕府役人などの情報を一覧できる名鑑であり,その目的は,武士の家格や出自を明確にすることでした。薩摩藩でも「薩陽武鑑」が作られ,島津氏の宗家や庶家,上級家臣家120余りの系譜や家紋,役職,領地などが網羅されていました。この時代,武士にとって家系図は,戦で手柄を立てる機会が少ない中,出世のために重要な役割を果たしていたのです。
武士社会では,家系図が履歴書のようなものであり,その出自や血統が昇進に大きな影響を与えていました。薩陽武鑑には,島津家が源頼朝の血筋を主張していたこともあり,藤原氏や平家と血縁関係を持つ家系図が多く見られます。
・薩陽武鑑「禰寝家と小松家」
しかし,家系図の価値が高まるにつれ,「ニセ家系図」も流行しました。これには,名門の武将や公家との血筋を偽って作成された家系図が含まれているようです。中には,金銭を支払えば,鎧兜や神社まで作り上げ,偽造や改ざんを行う「家系図屋」と呼ばれる者たちもいたとされています。特に平家の落人伝説が多く残る九州地方では,大宰府や鎌倉幕府など統治の正統性や拠り所として作られていました。