ねじめ正一のルーツ禰寝一族(その2)

佐多麓(伊座敷)と郡地区

 江戸時代の佐多郷は,伊座敷村・馬籠村・郡村・辺塚村からなり,その中心は地頭仮屋が設置された伊座敷村でした。しかし,禰寝氏の初代から4代までの墓があること,郡という地名が残っていることなどから,鎌倉時代初期までは郡が中心地であったと考えられます。

 鎌倉時代初期の5代清治から室町時代後期の16代重長までは,根占川南の富田城を拠点としていました。旧佐多町は,旧根占町とともに中世に「禰寝院南俣」と呼ばれ,南北朝時代には禰寝氏の本拠地として機能していました。 その後,禰寝氏は島津氏に従い,1596年,17代の重張のとき秀吉の太閤 検地により吉利に移封されます。これにより,禰寝院の領地は島津氏の直轄領となりました。

 江戸で名勝図絵等の書物で武将の出自の話題が広がると,第24代清香(1714~1786)の時代に,禰寝氏本家は「小松」へと改名しています。なお,平重盛の流れを自称する小松家の由来は,平清盛の嫡男である平重盛に遡るそうです。重盛は,京都市東山区六波羅の東南にある小松谷に館(小松第)を構えたことから,「小松内大臣」と呼ばれたことに由来します。しかし,この説を裏付ける資料が乏しく,信憑性に欠けるようです。やはり,大宰府の在庁官人であった「建部-禰寝」の系統の方が有力だと考えられます。

県史料集「禰寝文書」より

1 建部氏
 建部氏は,自らを藤原頼光の出自と称しています。1074年には,禰寝院の初代領主として根占の地を領有しました。系譜は以下の通りです。
 ① 藤原頼光は「大隅国権大掾」として仕えました。
 ② 頼貞は1181年に南俣院を領し,その子孫がこれを継承しました。
 ③ 頼親は「大隅国権大掾」として建部姓を名乗りました。
 ④ 親助は「佐多小太夫」として1147年に解状を奉り,平行家と争いました。
 ⑤ 頼清は「大隅国権大掾」として地頭職を務めました。
 ⑥ 清貞は頼清の後を継ぎました。
 ⑦ 清房は国衙の地方官僚であり,禰寝清重は建部清房の娘を娶り禰寝家初代となりました。
 この他,「さつま歴史人名集」にも建部姓の武将が記載されていますので紹介します。➊建部頼親は大隅国権大掾であり,禰寝院などに所領を有し,1112年に没しました。❷建部頼清は1121年に正宮政所から禰寝院南俣を与えられています。❸建部親助は「佐多小太夫」として1147年に解状を奉り,平行家と争っています。➍建部宗房は大隅国田所検校弟子丸名主を務めました。❺建部清俊は大隅国執行として小川院武元名主の職を担いました。また,❻建部近信は「佐多弥三大夫」として仕え,❼禰寝初代の清重は「禰寝部司」を務めました。後の4人(➍~❼)は1198年に鎌倉御家人となっています。
2 禰寝氏
 初代清重は,大隅国禰寝院南俣の地頭職に任じられて下向し,大宰府の在庁官人であった建部清房の娘を妻に迎えたことで,禰寝の地を領し,「禰寝氏」を名乗るようになったとされています。

小松家墓地案内板より

 小松家の墓所と園林寺(おんりんじ) 案内板によると,この寺院は1417年に建立され,開山は了巌玄明和尚,本尊は阿弥陀如来です。1595年,禰寝重張が小根占院(南大隅・錦江町)から吉利に領地替えされた際に寺院も移したそうです。ここには,第17代以降の歴代当主やその夫人,さらには第29代小松帯刀などの墓があります。墓の形状は,江戸初期に見られる石祠型で,石の祠の中に御霊代(みたましろ)を納める上級武士の墓とされています。また,第24代清香の代に「禰寝」から「小松」へと改姓されたとのことです。

さつま歴史人名集による考察

 建部姓禰寝氏は,隅州禰寝院(大小根占・佐多・田代・辺津加)の領主であり,沙弥清重入道行西が将軍頼家から相伝された地を拠点としていました。重張の代に吉利へ移封され,その後「小松」と改称されましたが,次男以下は引き続き「禰寝」を名乗り,一所持の家として存続しました。支族としては,宮原・阿窪・西本・在留・野間・丸嶺・今村・嶺崎・七目木・山本・北・野久尾・堀内などの系統があります。

 一方,三国名勝図絵によれば,藤原姓の禰寝氏は飫肥南俣郡司である富山四郎太夫義兼の後裔で,大根占・大姶良を領し,別名「富山氏」とも呼ばれていたようです。そうすると,佐多伊予房時盛の三男が禰寝村を基に「禰寝氏」を称した説もあり,禰寝氏は小松氏とは別系統であるとの説が成り立ちます。

 いずれにせよ,小松家が平清盛の嫡男である平重盛に繋がるという史実は確認されていません。鎌倉時代の豪族たちが江戸時代になってから系図を作成し,自らを源氏や平家の末裔と主張し始めることは,全国的に見られる傾向です。   

 禰寝姓を名乗る家系については,根占における分家が地名から山本,佐多,池端などの姓に改められているため,現在ではほとんど見られません。江戸中期,第24代当主の清香が禰寝本家を小松家と改称したため,禰寝姓を継ぐのは吉利に移った家系に限られるようです。また,本家しか小松姓を名乗れず,次男以下の分家は禰寝姓を用いています。よってねじめ正一氏の家系は,吉利に移住した分家一族(島津系統)の可能性が大きいようです。

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