忠兼の墓「出水のイボの神様」【R5】8月2号

 

 日本各地に存在するイボの神様は、昔から特別な信仰がありました。南蛮交易で多くの外国人が出入りするようになると,おのずと伝染病も広がっていきました。特に疱瘡(天然痘)は死亡率の高さやひどい瘢痕が残るため恐れられ,鹿児島県内でも無人島や人里離れた岬などで罹患した者を隔離していた伝説(獅子島悪瘡海岸etc…)が残っています

 戦前までのイボとは,通常のイボだけでなく疱瘡の瘢痕なども同じように考えていたようです。特効薬の無かった当時,神頼み(暗示療法)の意味もあったのか,必ず効くと信じ石塔を拝んでいたのでしょう。

  私の実家の墓の傍にも小さな石塔があり,墓参りにいくと「イボの神様」として必ず一緒に拝んでいました。

・忠兼が殺された場所に残る六地蔵塔

 

・島津忠兼の墓の横の石碑(イボの神様の説明)

 忠兼とは薩州島津家5代実久の弟で6代義虎の叔父にあたります。野田城主で当時肥後領であった天草長島郷(長島・獅子島)を奪い取り,堂崎城に居城していました。1556年,忠謙は讒訴(ざんそ)により騙し討ちにあい,外城後門の内側で自殺してしまいました。死後、この辺りに祟りによる怪異が多くあったためこの場所に六地蔵を建てたそうです。

 また、野田、長島などでも疫病(疱瘡)が蔓延するなど忠謙の祟りであると人々が噂するようになりました。薩州島津家は堂崎城跡や野田の新城跡などゆかりのあった場所に若宮八幡を建てて霊を慰めました。すると疫病が収まり人々は平和に暮らすことができました。後に出水の人々は疫病の蔓延を止めた忠兼をイボの神様」として崇め,親しまれるようになったとのことです。

 

・六地蔵塔の地蔵尊の浮彫3面~廃仏毀釈の難もなく尊顔が残っています。イボの神様として民衆に愛された仏像だから残っているのでしょうか…。

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