★ 今回は小説などによって語られる冷物取(ひえもんとり)について紹介します。
①里見弴 ②司馬遼太郎 ③平田弘史作
冷物取とは
江戸時代,薩摩の刑場で「死罪にする罪人を狩場(刑場)に放して,生きている罪人の肝臓を刃物を使わず食いちぎることを競技にした」ものだそうです。戦いの訓練や胆力を鍛えるために行っていたと言われています。
・ まず,江戸時代罪人の死体を使った日本刀の試し斬り(辻斬りを含め)や人胆の売買などの伝承は全国的にに数多く存在していますが,戦国期の様相とは大きく異なっているので区別して考えるべきです。また,薩摩藩自体辺境の地で謎が多く不気味な存在であったので,色々なイメージや噂が立ちやすい土地柄なのです。冷物取が本当に薩摩(誇張されていないかどうか)にあったかどうかと,薩摩独自の風習であったかどうかについて,まず最初に異を唱えておきたいと思います。薩摩藩という強大で謎の多い独特の文化やその子弟教育についても質実剛健,忠孝礼節が求められ学問や山坂達者などが奨励されていました。その一環で冷物取についても話が枝葉に及んでいったのだと考えています。
中世までは,死刑の量刑や内容もその領主の裁量で決まっていたのです。戦国の離合集散の世に於いて,見せしめ的なもので時に残酷な物が多かったようです。平和な時代になり獄門で首を切られた後,刀の切れ味を試すため,胴体は試し切りされたと言う。これは全国的に語られていることなのです。獄門は平安末期からあったようで,江戸中期の徳川吉宗の時代に幕府が内容を検討し,これまでの判例を法規化した裁きの際の基準となる公事方御定書を編纂させました。初めて法制化されたものであり,当然各藩もこれに倣い判例を順守しました。薩摩藩だけが勝手に「冷えもんとり」を行っていたとはならないのです。
(1) 司馬遼太郎の「竜馬がゆく」(昭和38年)で史実とかけ離れた龍馬の英雄伝説(小松帯刀の実績が竜馬に差し替えられた)が作られたように,歴史は得てして語り継ぐ人の立場や時代の要請などにより変わっていくものです。西南戦争では故郷を舞台に親子で,兄弟で,同郷の者同士で敵味方に分かれて戦ったのです。その結果,明治政府で活躍した偉人たちは評価もされず,故郷に帰れない人たちも多くいたようです。この短編小説を書いた里見弴の父,有島武も明治政府の官僚でその一人でした。
(2) 江戸時代まで人の肝は薬として売られていたことも事実で,死体から肝を取るようなことは全国的に行われていたとも言われています。戦国期,占領地に対する強奪や人さらい,肝取りなどは全国なものであり,後に秀吉により乱取り禁止令が出されたほどでした。また,明治3年に明治政府により「刑死者の試し斬りと人胆などの取り扱いが禁止」されるように全国的なものであったのです。しかし,他の藩にはなく薩摩藩だけに残酷な藩の風習として行っていたと流布されるのは何か意図的なものを感じます。(他の藩についても調べましたかと問いたい)
吉野の磔者坂など刑場にまつわる様々な伝説は数多く存在します。しかし,劇画・薩摩義士伝で描かれた「死罪人を馬に乗せて放ち、死罪人の生き肝を得るために武士たちが争奪戦をし,逃げきったら無罪放免となった」とここまでくると,薩摩藩の法制度の欠陥にまで及ぶ話になってきます。幕末から明治期にかけ,旧幕府軍からすると強すぎる薩摩軍への憎しみもあったことでしょう。噂レベルで言えば,野蛮な薩摩人なら「さもありなん」となるのです。その一方で薩摩では,日新公以来の死者に対する尊厳「廻向(冥福を祈ること)には我と人とを隔つなよ…(六地蔵塔の建立)」の精神からも誇張しすぎと言わざるを得ないのです。
敵味方供養塔「日本武士道の博愛精神を英文で書いた碑文」高野山
(3) ひえもんとりで勇名をはせた人物として桐野利秋や山本権兵衛などの名がありますが,山本に至っては大正デモクラシー期に総理大臣をした人物で,事実であれば反藩閥政治派から壮絶な追及に合い耐えられる筈もなく,噂話にすぎないと考えています。
※ さしずめ現代であれば,マスコミが総理官邸まで大挙して押し寄せ,「総理,若い頃ひえもんとりで優勝したことは事実ですか。…何故答えないのですか。…逃げるんですか。自らの責任は,…総理…」となるのでしょうか。大正期の新聞論調を見ると「政治家の腐敗や汚職・藩閥政治に反対」などと薩摩出身の政治家にとって受難の時代でした。その後,政治勢力も特定な藩に偏らず,少しずつ全国的な広がりになっていきました。
劇画で誇張された物語
(4) 冷物取をテーマに書かれた作品としては,大正6年発行の里見弴の短編小説が最初であるようです。その後,昭和40年代の司馬遼太郎のエッセーや昭和52年連載の平田弘史作の劇画・薩摩義士伝に繋がっているようです。「薩摩義士伝」に至っては,宝暦治水を基にした史実とともに薩摩藩に伝わるおぞましい風習として実しやかに語られるようになりました。正に,司馬の「竜馬がゆく」で龍馬伝説が作られたように,歴史が歪められ,または誇張されてきたのです。元となった里見弴の「ひえもんとり」も,父が幼い頃見た話であるとされているだけです。衝撃的な薩摩義士伝以降に書き込みされた一部ネット情報以外,根拠とする信憑性のある文献がありません。 そこで,里見弴のひえもんとりの抜粋稿を紹介しますので参考にしてみてください。
刑場跡地の谷間
里見弴の「ひえもんとり」
1 はじめに
江戸時代,罪人の処刑は,新川にかかる涙橋の先の二軒茶屋手前の谷間で行われていたそうです。役人にひかれ刑場に行く者は,この橋のたもとで家族と最後の別れをしていました。決別の場が涙橋の名の由来です。冷物取りと称して,首のない死体を試し切りにする競争が城下の青年たちの間で行われていました。胆力を鍛える名目で行っていましたが,藩の締め付け政策の一つで薩摩藩の残酷物語の一つです。
※ 死刑囚の亡骸から胆を競って取り出す一種の競技兼訓練で,参加するのは足軽以下の身分の者でした。刃物は使えず歯で嚙み切ったり,手で取り出したりしていました。
※ 薩摩藩御仕置場は城下郡元村の牢屋(涙橋向かいのJR新川踏切右下)から引き出され,谷山街道紫原の界迫門の首斬場・獄門場刑場(彦四郎川沿いの谷間)で処刑されていました。
2 舞台は紫原下の境迫門
昔の刑場は実方にありましたが,人々が多く住むようになると当時は山林であった谷山との境に移しました。場所は宇宿村二軒茶屋近くから紫原に登る手前の谷間(境迫門)にありました。近くには,新川に「涙橋」と言う木の橋が掛かっています。家族と死刑囚人は,この橋で悲しい最後の別れをしましたので「涙橋」と名付けられたそうです。
新川支流の彦四郎川
※ 明治10年に政府軍と薩摩軍が戦った西南戦争があり、多くの戦死者を出した事でも知られています。この涙橋のたもとには「涙橋決戦の碑」が建てられています。
※ 死罪にする罪人を狩場に放して,生き肝を取ることを競技にしたものだそうです。戦いの訓練や胆力を鍛えるために行ったと言われています。戊辰戦争でも殺した幕府軍の死体から肝臓を切り取って食べたと伝わっています。江戸期は肝は薬でもあったようです。
3 作者
この作品を書いた人は,里見弴で,父の有島武(明治政府の財務官僚)は,川内市平佐町の出身です。「ひとふさのぶどう」で有名な有島武郎は,里見弴の一番上のお兄さんです。学習院から東大の英文科に進みましたが途中で退学しています。小説家武者小路実篤・志賀直哉・兄さんの武郎達と一緒に,里見弴は文学雑誌の「白樺」を創刊(書物を印刷して出版すること)しています。代表作品は,「お民さん」・「安城家の兄弟」・「多情仏心」などです。武士の家に育ったお父さんは,幼い時に「ひえもんとり」の様子を見学して,その事を里見弴に,いかにも他人から聞いた噂話のように語って聞かせたとのことです。里見弴にとっては大変印象深くいつかは作品にしてみようと考えていたそうです。
※ (2) 里見弴の冷物取に続く