薩摩と肥後にまたがる亀嶺峠

 鹿児島県伊佐市と熊本県水俣市の県境に位置する景勝地「亀嶺峠(579m)」を訪れました。大口小川内から五女木牧場の横を通り,平成24年3月に閉校した山野西小学校から3キロ程度の小高い丘にあります。

・平成24年3月に閉校した山野西小学校 

 藩政時代には,薩摩国と肥後国を分ける国境の要衝として知られ,街道沿いの大口筋には美しい景観が広がっています。

・校庭で飼育されていたポニー

 この大口筋は,鹿児島城下から白銀坂(大隅国境)を越え,姶良市の龍門司坂を経て,溝辺や栗野,大口を通り,肥後国水俣に至る主要なルートでした。島津氏の北上を支えた新納忠元や,豊臣秀吉の島津征伐の帰りに通ったとも伝えられています。 

 亀嶺峠の頂上からは,天草諸島や霧島連山,開門岳,雲仙普賢岳,阿蘇の外輪山まで一望でき,その雄大な景色は訪れる人々を魅了します。この景観に感動した江戸後期の歴史家・思想家で,維新の獅子たちに影響を与えた『日本外史』の著者・頼山陽は詩文を残し,亀嶺高原にはその詩碑が建てられています。

 亀嶺峠の頂上に碑文石碑が建てられています。そこに頼山陽は詩文が刻まれ,近くの案内板に漢詩と現代語訳がありましたので掲載します。

過亀嶺臨眺諸岳 頼山陽 過亀嶺臨眺諸岳 
蓋肥薩日隅分界処也  頼 山陽
一嶺蟠四国 瞰視万山低 雄抜者五六 
指点自不迷 雄抜者五六 指点自不迷 
桜岳在吾後 依依未分携 阿蘇在吾面 
迎笑如相徯 温山与霧嶠 俯仰東又西 
何図九国秀 攢簇擁馬蹄 肥隅両湾海 
渟泓碧玻瓈 列仙森玉立 鑑貌整冠笄 
譬之人躯幹 腰尻与腹臍 此嶺是脊膂 
表裡道程斉 吾今上其頂 右挈又左提 
霊秘無遯隠 何異照水犀 厚福享可愧 
寧無詩句題 恨吾無傑語 空吐気如霓 
天風吹衣袂 我馬亦長嘶 欲笑一衡岳 
当時狂昌黎

・ 現代語訳
 亀嶺に立ち寄って,その高みより多くの山々を眺めたうた。思うにここは肥後・薩摩・日向・大隅の四つの国の境界にあたるところである。
 ひと連なりの嶺(亀嶺)が,四つの国の境界にわだかまり,多くの低い山々を見おろしている。(亀嶺の高みから眺めると)雄々しく抜きん出ている山は五つ六つほどで,もとより迷わずに指し示すことができる。
 桜島は私の後ろにあり,名残惜しくてまだ別れがたい。阿蘇山は私の面前にそびえており,笑顔で迎えて私を待っているかのようである。
 雲仙岳と霧島山とは,一瞬のうちに東へ西へと身を廻らせば見ることができる。どうして推測しえたであろうか,ここからは九州の秀でた山々が,我が馬のひづめの辺りに群がり集まって取り囲むように見えることを。
 肥後湾と大隅湾の二つの海は,深く水を湛えていて,その水面は碧色の水晶のように静かで澄みきっている。(それぞれの海の近くの阿蘇山と桜島は,)多くの仙人たちが厳かに直立して,海面に顔を映しながら,冠を固定するかんざしを整えているかのようだ。
 山々の地勢を人の体にたとえれば,腰や尻の部分と腹や臍の部分にあたる。この亀嶺は言わば背骨に相当し,表側から登っても裏側から登っても道のりは同じである。
 私は今やっと頂上にたどりついたのだが,(苦労の甲斐あって,)すぐれた景色を我が物のように,右に左にと意のままに眺めることができている。神秘的な景観が逃れ隠れることなく望めるのは,(古代中国の)東晋の政治家・温嶠が,犀の角を燃やして水底に潜む生物をあまねく照らし出したことと,どうして異なろうか。
 このように大きな眼福を得たことは誠に有難く,どうして詩句を詠まないでいられようか。だが残念なことに,私は優れた詩句をひねり出せず,いたずらに白い虹のような気炎を吐くばかりだ。
 空行く風は私の衣のたもとに吹きつけ,我が馬もまた長くいなないている。思えば笑い出しそうになる,衡岳[頼山陽の記憶違いで,実は「華岳」が正しい]があまりにも高く険しいので,そこに登った唐の詩人・韓愈は,そのとき下りられずに発狂して慟哭したという。(この亀嶺に比べたら,衡岳なんぞ大したものではないだろうに。)
                                   水俣市教育委員会

四国とは肥後・薩摩・日向・大隅の国

 この漢詩の書き出しの「一嶺蟠四国」は,四つの国(肥後・薩摩・日向・大隅)の境界にまたがる嶺という意味になります。この地は薩摩と肥後の境であり,正確には日向と大隅国はやや距離がありますが,江戸期の大口はこれら四国の国境に位置していたため,この表現が用いられたのでしょう。また,「桜島は私の後ろにあり,名残惜しくてまだ別れがたい」との表現から大口側からの帰路でこの漢詩を詠んだのでしょうね。 

 亀嶺峠(標高579.3m)は,伊佐市と水俣市の境界に位置し,薩摩国と肥後国の境界にあるなだらかな峠です。国道268号線沿いにあり,大口から水俣市へ向かう途中にあります。この周辺はかつて「徳光仏山」と呼ばれていました。

 『薩摩国誌』には次のように記されています。「徳光仏山は薩州の境で,山上には二つの石塔があり,徳光仏と伝えられている。碑文は消えて判読できないが,山頂はやや平坦である。この付近は深山で猛獣が多い。近くの四郎丸,九郎丸,徳光仏などの山々は水俣に属する高山であり,肥後と薩摩の境にあるが,正確な境界を知る者はいない」。この記述からも,当時は国境が明確に定められていなかった様子がうかがえます。

三国一の花嫁とは

 子どもの頃,我が家ではお見合いがよく行われており,両親が電話口で「今度の方は三国一の花嫁ですよ」と話していたのを覚えています。そのたびに,なぜ「世界一」と言わないのだろうと不思議に思ったものです。後に,友人の結婚式でも仲人や父親,友人代表のスピーチで,この「三国一の花嫁」がやたらと出てくるのです。

 私たちが日常で使う言葉やことわざを理解するには,それがいつの時代に生まれ,どう使われてきたのかを考えることが大切です。中世の時代,キリスト教と共に,言葉や文化,品物などが海外から大量に入ってきました。特に地理的な理由から,最初に伝わるのが鹿児島でした。鹿児島の方言には,例えば「ラーフル」(黒板消しのこと。語源はオランダ語の「布切れ」とされる)など,独特の言葉が残っています。小学生の頃,今の「黒板消し係」のことを「ラーフル係」と言っていました。

 さて,「三国一の花嫁」は,当時の「世界一の花嫁」のことだったのです。その「世界」とは,日本人の世界観において大和(日本),唐(中国),天竺(インド)を指していました。それ以前中国しか知らなかった室町時代の人々にとって世界は今よりもずっと狭いものでしたが,当時の状況を考えると当然のことです。天竺と言ってもインド方面の南方からと言った方がいいのでしょうね。

 このような新しい世界観が日本人に衝撃を与え,理解されるようになったのち,江戸時代の平和な時代を迎えると,「三国一」という言葉は歌舞伎や浄瑠璃,祝言の小唄などを通じて庶民の間に広まっていったのです。

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