薩摩国の「英禰駅と網津駅」と枚聞神社

 薩摩国と大隅国にあった古代の官道や駅家「市来(出水)・英袮・網津(おうず)・田後(たしり)・櫟野(いちいの)」の場所については諸説あり,特定が難しいようです。

・国府間を繋ぐ最短距離で設定された官道

 なかでも,英袮駅の比定地(駅があったとされる推定地の一つ)としては,莫袮城(阿久根城)のあった山下や,阿久根市波留字辻堂などが有力のようです。

・阿久根・牧聞神社の鳥居から見える推定地

二つの牧聞神社

 川内の網津駅は「水陸の要衝の地」とも称されており,網津村から京泊の間が有力な候補地とされています。官道の機能を引き継いだ街道や水運を利用した物流の拠点として経済が発展していきます。

 時代は下りますが,鎌倉期から江戸期にかけて,この地には開聞の枚聞神社(本宮)から勧請された枚聞神社「御手洗宮」が建立されています。この神社は,「航海・道中安全の祈願所」として,陸路および海路の両方の交通の拠点があったことが伺われます。

 特に,川内や阿久根の港或いは街道など交通の要衝地として,これらの神社は,古道を往来する人々や船舶にとって,精神的な支えとなっていたのでしょう。

・阿久根の牧聞神社

 また,阿久根にも牧聞神社があります。創建は建長2年(1250年)2月3日と伝えられ,初代英袮太郎成兼が勧請したとされています。『三国名勝図会』には,天智天皇の妃・大宮姫による勧請とも記され,「開聞九所大明神」とも伝わっています。

 いずれにしても,当社は開聞町の枚聞神社の分霊を祀ったものであり,阿久根における最初の神社とされています。一ノ宮あるいは宗社として,古くから人々の篤い崇敬を集めていました。

 阿久根は海岸沿いに位置し,薩摩国北部における交通・航海の要衝でした。高松川河口から陸地に入った港は,山地から海岸沿いへと続く古道の接続点として,当社は道中の安全や航海の無事を祈願する神社として重要な役割を果たしてきたものと考えられます。

・ 網津・牧聞神社からの推定値

小手洗大明神社(御手洗宮)

 三国名勝図絵に,次のように記されています。

 小手洗大明神社は,地頭館(川内)から北西10キロの距離にあります。網津村にあって,ご祭神は,頴娃開聞神社と同じ神様で,勧請された年月日については詳しく伝わっていません。
 言い伝えによると,大昔の7月7日に,開聞宮の神様がこの地に船で上陸され,ここでお手をお洗いになった場所とされています。神社の前には網津川という川があり,四季を通じて濁っていて,禊(みそぎ)には適していないとされています。
 この神社の別当寺(神社の管理をしていた寺)は,開花山淨音院神護寺といい,本府(鹿児島城下)の密教宗派である大乗院の末寺でした。ただし,開山した僧侶や創建された年月については伝わっていません。

 併せて牧聞神社の由来書によると,明治時代に入ってからは,近隣の諏訪神社や厳島神社,菅原神社,熊野神社などが合祀されていたことから,この神社がここ網津村一番の崇高を集めた中心の神社であったことが分かります。「御手洗宮」という通称から,太古よりの開聞の牧聞神社との深い関わりも指摘されています。

 また,川内川の河口に位置する京泊港という地理的条件から,東シナ海の荒波を避けるために「風待ち」のための宿泊所や,船の修理場などがこの付近に設けられていたと推察されます。境内燈籠には,舵の修理をして無事に出航できたと感謝したことが寄進された灯籠に刻まれています。

大隅国「蒲生駅」から薩摩国「櫟野駅」

 川内の国府近くの駅から大隅国へは,川内川支流や平地に沿って街道が走っていたと考えられます。その後薩摩山地の険しい山々にかかると高い山の谷間を縫うように道が走っていたようです。

・蒲生駅から櫟野駅へ向かう山道

・ 官道沿い市野々の鷹之巣神社 

 大隅国の蒲生駅から薩摩国との国境,新留峠を入ると直ぐの官道沿いに,入来町市野々(いちのの)という集落があります。集落の入口に「鷹之巣神社」があり,その御神木はイチイガシ(一位樫)です。近くに「平木場」の地名が残るように,周囲の山でとれるイチイガシは材質が非常に硬いため,かつては船の材料として用いられていたようです。

 ちなみに,櫟野の「櫟」は,一般には「くぬぎ」と読みますが,「いちい」とも読め,櫟野という地名は,「くぬぎの」或いはいちいの」とも呼べ市比野の由来になっているようです。

・ 市比野川の船着場跡(赤い橋の辺り) 

 川内川支流の市比野川は,この辺りから温泉街への城後川と分岐していきます。この船着場から長崎方面に木材を売りに出て,市比野は賑わいを見せ始めたそうです。

・ いちいの駅推定地跡

 平安時代に栄えた薩摩国府と大隅国府を結ぶ官道に置かれた「いちいの駅」の推定地。近くの船着場と共に,人馬や役人の宿泊食事などの世話をした宿泊地で栄えたそうです。 

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