朝ドラあんぱん「崇との再会」

 今週の『朝ドラあんぱん』では,いよいよノブと崇の再会の場面が描かれました。新聞社の採用試験の準備をしていたノブが,試験を受けに来ていた崇とばったり再会するのです。

 ドラマの中では,ノブと崇は幼馴染で同級生という設定です。ノブは女学校を卒業したのち,戦時中の国民学校で教師として働き,夫を亡くしてから新聞社に勤め始めたということになっています。

 しかし,史実ではノブは女学校を卒業後,日本郵船に勤め,そこで夫となる小松総一郎氏と出会い結婚しています。総一郎は帰還したあと病に倒れて亡くなり,ノブは生計を立てるために高知新聞の記者として働くようになります。崇と出会ったのは新聞社に勤めてからのことで,つまり,教師をしていた事実もなく,崇とは幼馴染でもありませんでした。その後ノブは崇と再婚しますが,運命的な再会ではなく,当時の戦争未亡人は,崇のように戦地からの引揚者或いは亡き夫の兄弟との再婚といったことも珍しくなかったのです。

・ 中央公園と西本願寺跡,左奥の白い建物が山形屋

 ところで,ドラマではノブが小学校の教師を辞め,新聞記者として「ヤミ市」の取材をする場面がありました。

母の話

 実は,私の母もこの話と似たような人生を歩んでいました。母は女学校を卒業後,小学校に勤め,3年ほどして教師を辞めました。その後,父と久しぶりに再会するのです。母と父は,尋常小学校からの同級生で幼馴染でした。

 父の兄(私の伯父)は,師範学校を出て教員となっていました。父も同じ道を志しましたが,私の祖父が大きな病を患い亡くなり,夢は絶たれました。そして,父は家計を支えるため,神戸の小さな商社に勤めていました。久しぶりに故郷に戻った際,母と10年ぶりに再会したのです。

 『あんぱん』を見ていると,母と父の若い頃の話が思い出され,どこか懐かしいような気持ちになります。当時の人たちの生活は「事実はドラマ(小説)よりも奇なり」の如く,多くの困難と克服,人の縁や恩など,時代に翻弄されながらもたくましく生き抜いた人たちが多いのです。

・西駅近くの共研公園にあった女子興業学校(鹿児島市立女子高校)

 終戦の翌年,母は女子興業学校・専攻科(今の市立女子高校)を卒業し,鹿児島市郊外にある小さな学校に教諭として赴任しました。母は7人きょうだいの長女で,県庁を早期退職し自営を始めたばかりの祖父の僅かな収入だけでは生計が成り立たず,母の給料が一家の生活を支える貴重な収入源でした。

 赴任先の学校から実家までは20キロほど離れており,当時は戦後の混乱で交通事情も非常に悪かったため,週末には6〜7時間かけて山道を歩いて帰っていたそうです。当時,学校の近くの後援会会長(地域の有力者)の離れの一室を間借りして暮らしていましたが,毎週末帰省する新採の母を会長は快く思っていなかったようです。そのうえ,戦地から復員してきたベテランの元教員たちが職を求め,会長宅を訪ねてくることが何度かあったといいます。そうした状況も,母にとっては重荷となっていたのかもしれません。

ヤミの手伝い

 日曜日には,西駅(私は今でもそう呼んでいます)の近くで,親戚が営むヤミ市の手伝いをしていました。米や野菜,魚などを報酬代わりにもらい,大家族の食卓を支えるために奔走していたのです。復員兵たちが立ち寄ると,母が準備したおにぎりは飛ぶように売れ,市場と自宅を何度も往復しながら補充していたそうです。

・昭和30年代の西駅(鹿児島中央駅)

 ところが,教職3年目の終わり頃,運の悪いことに,たまたま買い出しに来ていたその後援会長に西駅のヤミ市で働いていたところを見られてしまいました。翌日,校長室に呼び出され,「教員の立場でヤミ市に関わることは問題だ」と注意を受けたそうです。

 幸い,手伝いの範囲にとどまっていたため,それ以上の問題にはなりませんでした。その時,後援会長からは,「家族が気になるのなら自宅の近くで働いたら」と言われたそうで,母の中で張り詰めていた気持ちが切れてしまったようです。こうした事情も重なり,まだ幼い弟妹たちの世話に専念するため,母は教職を辞めました。そしてその後しばらくの間,本格的に親戚のヤミ市の手伝いをするようになったのです。

 次回はこのヤミ市での話を投稿いたします。なお,朝ドラで崇と友人の辛島がヤミ市で働くシーンもあるように,戦前・戦中の違法状態のやみ市と戦後のヤミ市は大きく異なっています。 

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