甲突川のリヤカー屋台村

新宿西口「思い出横丁」

 お金がなかった学生時代,新宿西口にある「思い出横丁」によく通っていました。飲み代も安く,学生にとってはありがたい場所でした。横丁のちょうど真ん中あたりに,三畳ほどの小さなおでん屋さんがあり,そこが私たちの行きつけでした。店には,福岡出身の口の悪い,けれど情の厚いおかみさんがいました。学生にはいつも呼び捨てで接していましたが,私たちが九州出身だと知ると,とても親身に接してくれました。

 たまにお金が足りないと,「この次でいいよ」と言ってくれることもありました。久しぶりに立ち寄ると「心配したがねぇ」と言うなど,細かな気配りのある店でした。故郷を遠く離れた学生にはこのちょっとした優しさが嬉しかったのです。また,友人たちと歌舞伎町に遊びに行く際の,待ち合わせ場所でもありました。その店で知り合って友人になった学生も何人かいましたので,そこに行くと,必ず誰か知り合いに会えるのも常連になった理由でした。狭い店で5~6人で座席はいっぱいになります。学生は席を譲って,店の前にビールケースを置き,立ち飲みになることもありましたが,これまた一興なのです。東京にはもともと立ち飲み屋が多く,安くですぐに酔えるという理由で学生はよく通っていました。真夏の蒸し暑い日も,真冬の底冷えする夜も,凝りもせず通っていたのです。この店のおでんは一本数十円とかなり安く私たちにとってはお腹を満たす食堂のような感じでした。

 また,店には,九州出身のお客さんが多く,方言で気兼ねなく話せることが一番の理由で通った本当に居心地が良かった「思い出の横丁」でした。

中洲の屋台街

・中洲の屋台

 社会人になってからは,出張や旅行で博多を訪れるたびに,中洲の屋台街に立ち寄るのが楽しみとなりました。また,中洲の屋台が目的で旅することもありました。中洲を歩くと雑踏の中の小さな屋台から聞こえてくる方言と笑い声,どこか懐かしさを感じさせる雰囲気が,旅情を誘うのでしょう。

・鹿児島の屋台村

かごっまふるさと屋台村

 平成24年から令和2年までの約9年間,高見橋電停近くにあった「かごっまふるさと屋台村」にも,よく通いました。県内の特産物を活かした美味しい料理を味わえる店が多く,地元の良さを感じられる飲み屋街でした。

 現在,屋台村は地下街に移りましたが,やはり屋台は屋外でないと雰囲気がでません。外の風に吹かれながら飲むビールは,どうして美味しいのでしょうか。

かごしまリヤカー屋台

 屋台村がなくなってからは,どこか寂しさを感じていましたが,最近「甲突川左岸緑地公園」で開催されている屋台イベントのことを知り,最終日に足を運びました。「かごしまリヤカー屋台」という,若い飲食店オーナーたちが中心となって企画したイベントのようです。立ち寄った「鹿屋ちっく」と言う屋台は,遠く鹿屋から毎日出店しているそうです。公園の利用には法的規制や利用上の制約など難しい問題もあるようですが,このイベントの開催許可をくださった市役所の英断に感謝します。

 ネット社会において,観光立県を掲げる鹿児島には,従来のような保守的で受け身の政策だけでなく,より積極的で戦略的な観光施策が求められているのではないでしょうか。 昨日,立ち寄った屋台では,県外からの旅行者も結構いると店長さんから伺いました。明るい時間から風に吹かれ,お酒を楽しめるというのは,なんとも贅沢なひとときでした。鹿児島は歴史的にも戦後,戦地からの引揚港があったところですので,やみ市と屋台の食文化は貴重な観光資源だと思うのですがいかがでしょうか。

屋外のダレヤメ

 一日の終わりに妻からの「オヤットサー(お疲れさま)」のひと言がうれしい年齢になりました。今日は家で晩酌「だいやめ(疲れを癒すこと)」をしようね。この年になると,健康でお酒を飲めるのも幸せなことです。現在は健康上の理由から週に1~2回で量も少なくなりましたが,ちょっと贅沢なつまみを買って帰るのもささやかな楽しみになりました。

 ちなみに,「晩酌」とは,夕方から夜にかけて,自宅でお酒をゆっくり楽しむことを指します。そう考えると,明るいうちから屋外で飲むお酒が,なぜあれほど美味しく感じられるのか納得できます。開放的な空の下で風を感じながらいただく一杯は,日頃あまりできない小さな贅沢だったのです。

屋台とは

 屋台と聞くと,私はまず「チャルメラ屋台」を思い出します。中学生の頃,夜になると,自宅の前をチャルメラの音色を響かせながら通っていき近くに止めて営業していました。夕食を食べしばらくするとどうしてもお腹が空いてしまい,その屋台のラーメンを楽しみにしていたものです。食べ始めると近くの同級生たちもやって来て一緒に食べたものです。あのラーメンは,格別に美味しく,値段はうどんが200円,ラーメンが300円だったと記憶しています。

 そもそも屋台とは,屋根付きで飲食用の台を備えた,移動可能な簡易店舗のことです。私が小学生から中学生の頃までは,西駅の近く,日豊線沿いや西田黒田川沿いに,そうした屋台屋がいくつもありました。夕暮れ時になると,何十台の屋台が赤ちょうちんをともして,あちこちへと散らばっていく光景はとても風情がありました。今ではその姿を見ることも少なくなりましたが,私にとって屋台は,懐かしく温かい記憶と結びついた,特別な存在でした。

・ 現在見かけるようなリヤカーを改造した屋台は,終戦直後に現れた闇市がその始まりとも言われています。戦争で被災した人々や,外地から引き揚げてきた人々,戦争未亡人たちが,生活の糧を得るために始めていたそうです。
 終戦後,戦地に抑留されていた何十万人という日本軍人や民間人が,命からがら祖国へ戻ってきました。山口県の下関,福岡の門司や博多,長崎の佐世保,鹿児島など,日本海や東シナ海,太平洋に面した港町は,引き揚げ港として指定されており,終戦から5〜6年にわたって,彼らを受け入れるための宿舎や食料,医療,輸送手段などの準備が進められていました。こうした引き揚げ者の多かった港町や,駅の近くには特に闇市が形成され,そこから屋台街が生まれていきました。
・ 福岡市史によると,中洲の屋台も,戦後すぐに登場しましたが,後にGHQの指導によって一時撤退を余儀なくされました。しかし,屋台の事業者たちが,行政や警察と交渉を重ね,昭和31年には「博多移動飲食業組合」が設立され,屋台営業の許可の条例も施行されました。昭和45年ごろには福岡市内の屋台の軒数が約400軒に達し,最盛期を迎えました。
 その後,時代の流れとともに屋台の数は減少し,平成22年にはおよそ150軒にまで減ったそうです。それでもなお,屋台は博多の食文化を伝える大切な存在として,今日までしっかりと息づいています。
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