松ちゃん

学校よもやま話~雑感(17)

学校よもやま話~雑感その1「宿直」《R6》2月3号

今の校舎は児童数減少に伴い,空き教室を活用した更衣室や学年室などがあり,先生方の休憩場所として利用されています。児童数が多かった昭和30~40年代は空き教室が殆ど無く,唯一用務員室(主事室)が憩いの場で,職員同士の団らんの場でもありました。...
離島(奄美)の歴史(15)

鹿浦小学校 旧奉安殿《R6》2月2号

奉安殿とは,戦前から戦時中にかけて,天皇・皇后両陛下の御真影(写真)と教育勅語を納めていた建物です。建国記念日などの祝賀式典の際には,講堂に移され、職員,生徒全員で御真影に対する最敬礼と校長による教育勅語の奉読が行われていました。また,登下...
離島(奄美)の歴史(15)

徳之島の歴史「秋徳湊の戦い」《R6》2月1号

薩摩による奄美・徳之島・琉球侵攻図「最大の激戦地 秋徳湊の戦い」 島津氏にとって琉球国を通した中国貿易による利益は重要でした。秀吉の朝鮮出兵により中国との関係は最悪で,唯一琉球との関係だけが続いていました。そこで慶長14年(1609)に琉球...
地名散策(22)

幸加木川上流の木村探元の墓と六地蔵塔

木村探元の誕生地(平田)と墓(小野)・ 幸加木神社入口の探元の墓地   木村探元は,薩摩を代表する全国的に有名な絵師ですので詳細については割愛します。木村家は,小野町の高嘉木(幸加木)から興った家系で神社の入口に木村家代々の墓と探元のものが...
歴史・自然(137)

意外と少ない薩摩の殉死につ《R6》1月8号

1 徳重神社の殉死の碑「義弘公の13人」 案内板には以下のように記されています。「元和5年(1619年)7月21日,義弘公(享年85)が没すると,その恩顧を受けた家臣たちが後を追って殉死しました。当時,薩摩藩では殉死が禁じられていましたが,...
想い出(36)

蒲生出身の先輩のエピソード《R6》1月7号

蒲生町の先輩のエピソード 昭和50年代後半の頃の話です。職場の飲み会にほとんど参加しない蒲生出身の先輩がいました。私も何度か個人的に飲みに誘いましたが,いつも都合が悪いとの返事でした。 ある時,彼がしみじみと語った飲み会に行かない理由が衝撃...
歴史・自然(137)

薩摩おごじょ《R6》1月6号

かもうおごじょカレンダー 校区公民館の方から,見ると面白いよと「かもうおごじょカレンダー(婦人心得百ヶ条)」をいただきました。これは明治時代に蒲生町の成人女性の教育の一環として作成されたそうで,家庭や社会生活における嗜みが百ヶ条にまとめられ...
学校よもやま話~雑感(17)

朝の挨拶運動での一コマ《R6》1月5号

春先の挨拶運動中、正門の花に水をかけていた時の出来事です。私が着用していたマスクを見て、黄色いカバンを背負った1年生の男の子が近づいてきました。「先生、お花さんに風邪をうつさないでね」と優しく声をかけてくれました。ところが直ぐに,一緒に歩い...
歴史・自然(137)

頴娃町は隠れた滝の名所《R6》1月4号

南九州市の頴娃町は東シナ海に面し、風光明媚な自然と歴史に溢れた場所です。南薩山地の縁から広がる台地や山岳、河川、海岸線が美しい景観を作り出しています。江戸時代の図絵「三国名勝図絵」には、集川の三つの滝が紹介されています。 ・集川上流の施設 ...
学校よもやま話~雑感(17)

阪神淡路大震災で被災した小2の女の子の話《R6》1月3号

今から29年前,阪神淡路大震災の後,しばらくして神戸から被災した2年生の女の子を学級で受け入れたことがあります。その子は自宅で被災し,父親の祖母宅に一時的に避難してきたのです。転入書類を受け取ると,連絡欄には「家屋が倒壊し,母親がその子をか...