県内の歴史を大きく薩摩半島・大隅半島・離島(奄美)に分け歴史を調べることで,国どうしの関係性や人々の暮らしなどを知ることができる。特に奄美については薩摩や琉球とのかかわりや独自の文化など考察する資料としたい。
ねじめ正一のルーツ禰寝一族(その3)
禰寝氏初代~4代までの歴代当主の墓(佐多郡地区) 薩陽武鑑によると,禰寝家の初代である清重は,平高清の長男とされています。高清は,平氏の勢力拡大と興隆の基礎を築いた平正盛(清盛の祖父)から数えて6代目にあたるため,『六代』と呼ばれていました...
台風が鹿児島を通る理由
本県に上陸した台風10号 近年,温暖化の影響か台風の進路も不規則になり,これまであまり台風が通らなかった東北地方や首都圏でも被害を受けることが増えてきたように感じます。今年の8月末に日本列島を襲った台風10号は久しぶりに本県に接近し,薩摩...
耳原六地蔵塔について(その2)
耳原六地蔵塔の持物と銘文(一)龕部の持物と印 六地蔵の各道や名称については諸説があり,特定することは難しいですが,その一つの方法として,持物や印によって特定することができます。ただし,耳原六地蔵塔は廃仏毀釈の影響を受けており,像上部が激しく...
頴娃町別府・松原校区の歴史③~耳原六地蔵塔について(その1)~
耳原六地蔵塔とは 南九州市頴娃町別府には,市指定文化財・耳原六地蔵塔があります。山川石で作られており開聞町や指宿市にある六地蔵塔に似ていますが,建立された年代や支配関係等からむしろ加世田の六地蔵塔と近いものと考えられています。 六地蔵塔は,...
頴娃町別府・松原校区の歴史②
宝珠庵(小原の門前)と宝持庵(耳原の寺下)(1)宝珠庵跡・ 大日如来像(小原の宝珠庵跡) 尊顔横の十字架のようなものは,十字羯磨(じゅうじかつま)と言い,仏の智慧を象徴し,煩悩を打破する密教法具・魔除けです。 宝珠庵跡・大日如来像裏の碑文...
頴娃町別府・松原校区の歴史①
耳原遺跡 耳原集落の北側に位置する大河田・高吉・松永の三叉路付近にある耳原遺跡では,縄文式土器の破片(塞ノ神式土器や石斧,ヤジリ)や弥生式土器が出土していることが知られています。このことから,紀元前3000年前の縄文前期には,加治佐川に沿っ...
『薩摩の恩人,耳原の孫次郎物語⑤』
戦後処理の孫次郎(孫次郎の願い) 1598年の年末,泗川の戦で大敗を喫した明の董一元は,参謀の史龍涯と孫次郎を使者として送り,義弘に対して副将の茅国器の弟,茅国科を人質として送るとの和議を願い出てきました。孫次郎は明側の講和特使として,再び...
『薩摩の恩人,耳原の孫次郎物語④』
孫次郎の秘策伝授 「久虎のもとで中国古来の兵法を学び,軍師としての経験を積んだお主のことだ。明の勢いはいかがか」と義弘公が尋ねました。孫次郎は「20万の大軍でございますが,その実態は現地の農民を雇って成り立っている烏合の衆でございます。」続...
『薩摩の恩人,耳原の孫次郎物語③』
藩の役人として孫次郎 孫次郎が登城した獅子城 ・獅子城(頴娃城)天守跡 頴娃久虎は,孫次郎を家臣として迎え入れ,獅子城に住まわせました。1578年9月の日向石ノ城(西都市北側)攻撃や,1581年8月の肥後水俣城攻撃,その他の合戦にも孫次郎を...
『薩摩の恩人,耳原の孫次郎物語②』
孫次郎の出世物語 孫次郎は,明国南京の裕福な家庭に生まれ,幼少の頃から学問に励む聡明な青年でした。しかし,15歳の時に父親を亡くし,継母の手で育てられることになります。この継母は悪意を抱き,自分の子を跡継ぎにするために張昂を毒殺しようとしま...