薩摩半島の歴史(42) 頴娃町別府・松原校区の歴史② 宝珠庵(小原の門前)と宝持庵(耳原の寺下)(1)宝珠庵跡・ 大日如来像(小原の宝珠庵跡) 尊顔横の十字架のようなものは,十字羯磨(じゅうじかつま)と言い,仏の智慧を象徴し,煩悩を打破する密教法具・魔除けです。 宝珠庵跡・大日如来像裏の碑文... 2024.08.14 薩摩半島の歴史(42)
薩摩半島の歴史(42) 頴娃町別府・松原校区の歴史① 耳原遺跡 耳原集落の北側に位置する大河田・高吉・松永の三叉路付近にある耳原遺跡では,縄文式土器の破片(塞ノ神式土器や石斧,ヤジリ)や弥生式土器が出土していることが知られています。このことから,紀元前3000年前の縄文前期には,加治佐川に沿っ... 2024.08.14 薩摩半島の歴史(42)
歴史・自然(78) 『薩摩の恩人,耳原の孫次郎物語⑤』 戦後処理の孫次郎(孫次郎の願い) 1598年の年末,泗川の戦で大敗を喫した明の董一元は,参謀の史龍涯と孫次郎を使者として送り,義弘に対して副将の茅国器の弟,茅国科を人質として送るとの和議を願い出てきました。孫次郎は明側の講和特使として,再び... 2024.08.12 歴史・自然(78)薩摩半島の歴史(42)
歴史・自然(78) 『薩摩の恩人,耳原の孫次郎物語④』 孫次郎の秘策伝授 「久虎のもとで中国古来の兵法を学び,軍師としての経験を積んだお主のことだ。明の勢いはいかがか」と義弘公が尋ねました。孫次郎は「20万の大軍でございますが,その実態は現地の農民を雇って成り立っている烏合の衆でございます。」続... 2024.08.12 歴史・自然(78)薩摩半島の歴史(42)
歴史・自然(78) 『薩摩の恩人,耳原の孫次郎物語③』 藩の役人として孫次郎 孫次郎が登城した獅子城 ・獅子城(頴娃城)天守跡 頴娃久虎は,孫次郎を家臣として迎え入れ,獅子城に住まわせました。1578年9月の日向石ノ城(西都市北側)攻撃や,1581年8月の肥後水俣城攻撃,その他の合戦にも孫次郎を... 2024.08.12 歴史・自然(78)薩摩半島の歴史(42)
歴史・自然(78) 『薩摩の恩人,耳原の孫次郎物語②』 孫次郎の出世物語 孫次郎は,明国南京の裕福な家庭に生まれ,幼少の頃から学問に励む聡明な青年でした。しかし,15歳の時に父親を亡くし,継母の手で育てられることになります。この継母は悪意を抱き,自分の子を跡継ぎにするために張昂を毒殺しようとしま... 2024.08.12 歴史・自然(78)薩摩半島の歴史(42)
歴史・自然(78) 『薩摩の恩人,耳原の孫次郎物語①』 「三国名勝図絵」に明人張昂寄寓(居候)の項があります。その他にも「薩隅日地理纂考」,「征韓録(平田純正等編修)」,「鹿児島外史」,「西藩野史(得能通昭)」,「島津義弘公記(谷山初七郎著)」,「泗川御在陣記(川上久國)」,「泗川新寨戰捷之偉... 2024.08.12 歴史・自然(78)薩摩半島の歴史(42)
歴史・自然(78) 県内の戦争関連施設跡 かつて頴娃町内の地名を調べる際,地元の郷土史家の西俊寛先生にご案内していただき,資料として「幻の旧陸軍 まのひ(青戸飛行場)回想記」をいただきました。県内の戦争関連の施設等で,知覧や万世,出水の特攻飛行場に比べ,頴娃町の佐世保海軍通信分遣... 2024.08.10 歴史・自然(78)薩摩半島の歴史(42)
歴史・自然(78) 廃校になった松原小学校 南九州市立松原小学校は,2021年に南九州市立別府小学校へ統合され,120年の歴史に幕を閉じました。「松原」という校名から海岸近くを想像するかもしれませんが,これは集落名の松永集落と耳原集落から一字ずつ取って付けられました。当時は地元意識... 2024.08.08 歴史・自然(78)
歴史・自然(78) 頴娃町の学校 明治5年の学制(学区や教員免許など教育制度を定めた法令)により「小学教員は年齢20歳以上で,師範学校卒業免状あるいは中学免状を有する者」と定められていたが,当時の状況として師範学校の卒業者自体が少なく,現実とかけ離れていた。その後,実態に... 2024.08.07 歴史・自然(78)薩摩半島の歴史(42)