鉄砲水被害の忘れられない記憶

夜ドラ「ラジオスター」

 NHKドラマ「ラジオスター」を毎回楽しみに見ていましたが,ついに放送が終わってしまいました。ラジオ放送の場面を通して,被災された方々が抱える心の傷や葛藤が丁寧に描かれていて,大規模災害のあとに続く復旧や復興が,地域で生きる人々にとってどれほど深刻な問題なのかを改めて考えさせられました。

 それでも,人と人とのつながりに支えられながら,少しずつ前を向き,希望を取り戻していく姿が描かれていて,新しいタイプの「災害復興ドラマ」として深く心に残る,忘れがたい作品だったと思います。

 私にとって,災害関連をテーマにしたドラマは,昭和52(1977)年の『岸辺のアルバム』です。『日本沈没』や『あまちゃん』,『Dr.DMAT』など,このテーマの作品はたくさんありますが,やはり最初に強烈な印象を受けたのはこのドラマでした。
 何といっても,主題歌「ウィル・ユー・ダンス」を歌うジャニス・イアンの曲とともに,マイホームが濁流にのみ込まれていくシーンが鮮烈で,今でも強く記憶に残っています。
 学生時代,友人が南武線・登戸近くの多摩川沿いのアパートに住んでいて,窓を開けると目の前に多摩川が流れていました。そんなこともあり,『岸辺のアルバム』はとても身近に感じられ,思い出深いドラマでした。また,ホームドラマでありながら「不倫」というテーマを正面から扱い,一見平和に見える家庭が少しずつ崩れていく様子を描いていたのも,当時学生だった私にはかなり衝撃的でとても印象に残っています。

 東日本大震災以降,東北を中心に被災者へ必要な情報を届けるため,期間限定の災害FM局が各地で開設されたそうです。能登半島地震の被災地でも,初の災害FM局「まちのラジオ」が作られ,ドラマ「ラジオスター」はこの実話をもとにしているようです。

 私はこのドラマを見て初めて災害FMの存在を知り,実際に「まちのラジオ」を聴くようになりました。地域密着ならではの手作り感やアットホームな雰囲気があり,聴いていて自然と温かい気持ちになります。実際の番組では「町の復興・情報ラジオ『町の和』」○月○日○曜日,時刻は12時になりました。ラジオの前のみなさん,こんにちは!ここからは町の復興情報番組です。よろしくお願いします」~そんな温かいあいさつで始まる放送を,「ラジオスター」の物語と重ねながら楽しんで聴いていました。

風水害について

・ 8・6水害

 災害大国といわれる日本では,地震や台風,豪雨などによる大きな災害がたびたび発生し,多くの命が失われています。学校でも毎年,9月1日の「防災の日」に合わせて,地震を想定した避難訓練が行われています。

 阪神・淡路大震災(1995年)や東日本大震災(2011年),能登半島地震(2024年)など,大規模な災害が十数年おきに繰り返し発生しています。日本は地震や火山活動が活発なうえ,台風や豪雨による被害も起こりやすい,災害と隣り合わせの国だといえます。

 また「台風銀座」とも呼ばれてきた鹿児島県でも,梅雨や台風の時期には風水害が多く,これまでに何度も大きな被害が起きています。県内には,実際に命の危険を感じた経験をもつ人も少なくないと思います。災害は,人命や家屋に被害をもたらすだけでなく,道路や電気,水道などのインフラの寸断,そして被災した人たちの心に大きな不安を残します。そのため,復旧や復興には長い時間と多くの苦労が必要になります。

ドラマでの救出場面

 「ラジオスター」の放送の中で,小野さくら(常盤貴子)が地震当時の体験を語り始めるシーンが,とても印象に残りました。特に,地震で倒壊した家屋の下敷きになった小野を,消防士の西川が必死に助け出そうとする場面です。

 「先に逃げてください。津波が来ます。私のことはもういいですから」と,自分を置いて逃げるよう叫ぶ小野に対して,西川は「一緒に死んでやる」と言いながら救助を続けます。その必死な姿に,強く胸を打たれました。

 このシーンを見ながら,実際に災害を経験した多くの方々も,たとえ命は助かったとしても,心に深い傷やトラウマを抱えながら生きていくのだろうと思いました。

鉄砲水被害

 私もこのシーンを見て,ある体験を思い出しました。鹿児島県は風水害の多い地域で,平成に入ってからも「8・6水害」をはじめ,大きな災害がたびたび起きています。河川沿いや山間部の学校では,毎年のように地域住民の避難所として対応にあたることがあります。

 あの災害の日のことは,今でも衝撃的な光景として胸に残っています。学校の横を流れる小さな川が鉄砲水となり,周辺を巻き込む大きな被害が出たときのことです。

 朝早く,校長先生から緊急の連絡が入りました。「学校が大変なことになっている。すぐ来てほしい」と言われ,私は急いで学校へ向かいました。到着すると,消防車や救急車が何台も集まっていました。地元の消防団や地域の方々は,すでに瓦礫の撤去作業を始めていて,私たち学校職員も一緒になって,大きな木材などを校庭へ運び出しました。

 しばらくして,消防職員の張り上げる声が響きました。みんなが駆け寄ると,川の中から遺体が担架で校庭へ運び上げられました。私たち職員も加わり,その担架を体育館へ運びました。間もなく二人目の遺体も運ばれ,同じように体育館へと運び込まれました。館内では,警察や医師による検視が行われていました。

救急車の中の出来事

 そして最後に,父親のMさんが見つかりました。奇跡的に命は助かり,大けがではあったものの生存していたため,周りからは励ましの歓声にも似た声が上がりました。

 そしてMさんが救急車で近くの病院に搬送される際,校長先生から突然,「先生,一緒に病院まで乗って行ってください」と声をかけられました。戸惑いながらも,私はその方の隣に座ることになりました。そして最後に,校長先生の奥様も乗り込んでこられました。

 Mさんは地域PTAの役員を務めていた方で,私にとっても顔なじみの方でした。救急車が走り出して間もなく,Mさんは突然,私の手を強く掴み,「先生,ウッカタ(妻)はな,あたいの娘はな,いけんじゃったと(どうだった)」と,震える声で尋ねられました。

 つい先ほど体育館へ搬送したばかりでしたので,若かった私は何ひとつ言葉を返すことができず,ただうつむくことしかできませんでした。するとMさんは,さらに声を張り上げ,「先生,ウッカタは死んだとか。娘はだめやったとか」と,何度も繰り返して問いかけてこられました。

 私はただ呆然とするばかりでした。そのとき,奥に座っておられた校長先生の奥様が,そっと近づき私の手を外すと,Mさんの手を優しく包み込まれました。そして大きな声で,「二人とも大丈夫ですよ。けががひどかったから,大きな病院へ運ばれたんですよ。だからMさんは,自分のけがをしっかり治しましょうね」と,語りかけていました。

 私はその傍らで,何もできないまま,ただその光景を見つめていることしかできませんでした。病院へ到着し,救急車を降りるとき,またMさんは私に向かって,「先生,本当はいけんじゃっとね。先生……」と叫び続けながら運ばれていかれました。その後のこと(病院での様子や誰の車で学校に帰ったのか等々…)は,不思議なくらい記憶が途切れていて,今でもまったく思い出すことができません。 

大切な家族を失ったMさん

 その数か月後,退院されたMさんが職員室を訪れ,先生方に丁寧に挨拶をされました。その翌日,校長先生がそのときの様子を全職員に話してくださいました。

 Mさんの自宅は,以前から大雨のたびに幾度となく危険にさらされていたので(行政等に何度となく相談していたそうですが…),近いうちに引っ越しを考えておられたとのことでした。しかし,先祖代々受け継がれてきた土地であったため,なかなか決心がつかなかったそうです。そのことが,結果として大切な家族を失うことにつながってしまい,Mさんは,深い悔恨の念を抱いておられたと聞きました。

 災害当日の明け方,家中を震わせるようなすさまじい地鳴り揺れで,Mさんは目を覚ましたそうです。

 「ちょっしもた(しまった)」と声をあげ,慌てて家族を起こし,避難しようとされたのですが,その直後,バギバギと壁が裂ける音や,何かが流されていくような激しい音が響いたといいます。とっさにMさんは,家族3人の体を一本のロープで何重にも結びつけたそうです。

 そして次の瞬間,家はふわりと持ち上がるように揺れ,そのまま三人は家ごと濁った激流の中へ呑み込まれていったそうです。

 後日,私もその場所を訪ねました。そこには,かつて家があったことが分かる土台の一部だけが残されているだけで,家屋は跡形もなく消え去っていました。更地になった土地を見ていると,自然の猛威を思い知るばかりでした。

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