学生時代に覚えたウィスキーの味
昔の鹿児島の焼酎は「芋臭い」とよく言われていました。これは決して感覚的な話ではなく,本当に芋の匂いが強かったのです。今では水洗トイレが当たり前ですが,私たちが子どもの頃は汲み取り式便所でした。父が焼酎を飲んで帰宅した翌朝などは,その独特の芋の匂いが家の中にまで漂っていたものです。他県出身の友人たちの話を聞くと,日本酒にはそこまで強い臭いはなかったようです。
そんなこともあってか,東京で初めて学生生活を始めた頃は,少し背伸びをして小さなおちょこで日本酒を飲んでみたいという憧れがありました。鹿児島出身の友人たちも,焼酎よりビールや日本酒を飲むことが多くなっていました。とはいえ学生の身分ですから,高価な酒など買えません。いつも手頃な値段の剣菱(すこし高価であったが神戸出身の友人がいたため)や菊正宗,月桂冠などの一升瓶を買っては,友人たちと酌み交わしていました。
とりあえずビール!〆はウィスキー
自分のアパートでの飲み会は,まずビールで乾杯。そして「剣菱」の一升瓶を開け,最後はトリスかニッカウヰスキーへ。そうして毎回のように記憶をなくしていたのです。今思えば,あれが私たちの学生時代のお決まりのパターンでした。
もっともお金が無くて,日本酒だけで飲んだときは悲惨でした。特に友人が泊まりに来ると,一升瓶を開けて飲み始めるのですが,若かったこともあり,みんな酔いつぶれるまで飲むのが当たり前でした。

・剣菱や菊政宗,月桂冠
その結果,翌日はひどい二日酔いになることもしばしばです。頭はガンガンするし,胃はむかむかするし,一日中何もする気が起きません。日本酒の二日酔いほどつらいものはないと,今でも思っています。それでも懲りることなく,しばらくするとまた同じ顔ぶれが集まり,同じようなスタイルで飲んでいました。
焼酎ブーム
学生時代の東京では,今のように鹿児島の芋焼酎を見かけることはほとんどありませんでした。あったとしても気軽に買えるようなものではなく,私たち学生には縁遠い存在でした。
社会人になって鹿児島に戻ってから,ちょうど焼酎ブームが起こりました。お得意様に「伊佐美」を届けたこともありましたが,当時から簡単に手に入る酒ではなく,大口に転勤していた父の友人から譲ってもらったものでした。
その後,「森伊蔵」や「魔王」,「村尾」などが全国的な人気を集め,一本数万円という値段が付いているのを見たときには本当に驚きました。
最近の芋焼酎は,かつてのような強い芋臭さが少なくなり,フルーティーで飲みやすい味わいのものが増えました。そのため女性にも人気があり,好んで飲む人をよく見かけます。しかし,私たちの若い頃は,焼酎を飲む女性を見かけることはほとんどありませんでした。

しかも学生ですから,いつもお金に余裕があったわけではありません。そんな私たちの懐を助けてくれたのが,サントリーのレッドやハイニッカウヰスキーでした。手頃な値段で買えるうえに量もあり,仲間が集まるとよくお世話になったものです。今では高級ウイスキーとして扱われる銘柄もありますが,当時の私たちにとっては,とにかく安くて気軽に飲める二級ウィスキーが何よりありがたかったのです。

・安くて美味しかったハイニッカデラックス
ウイスキーは,友人三人で一本を分けて飲めば,つまみ代を入れても一人当たり数百円で済みました。中でもハイニッカデラックスは,値段も600~700円ほどと手頃で,何より美味しく,よく飲んだものです。
また,少し懐が温かくなると,サントリーホワイト(900円?)やオールド(2000円?)を買えるようになりました。普段は手が出ない銘柄だけに,その頃は少し背伸びをしたような気分になれて嬉しかったものです。
一方,酒店の棚にはジョニーウォーカーの黒ラベルが一万円近い値段で並んでいました。学生の私にはとても手の届かない高級品で,ショーケース越しに眺めるだけでした。それでも,「いつか洋酒やブランデーを気軽に飲めるような身分になりたいものだ」と思いながら見ていたことを,今でもよく覚えています。今では高価だった洋酒も手ごろな金額となり,当時憧れていた酒も手に入るようになりましたが,仲間とお金を出し合いながら飲んだハイニッカデラックスの味には,なかなかかなわないような気がします。

・サントリーウィスキーの定番
マッサンのモデル「竹鶴政孝,リタ夫妻」
このような学生時代の思い出があるからこそ,ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝,リタ夫妻をモデルにした朝ドラ「マッサン」を興味深く見ています。当時のウイスキーがまだ高級で特別な存在だった時代の空気や,学生時代に仲間と飲んだ酒の思い出が重なり,ドラマを見ながら懐かしい気持ちになることがあります。

倒産寸前で人員整理
先日の朝ドラ「マッサン(第114話)」では,ウイスキーが売れずに会社が倒産寸前となり,ついに従業員の人員整理にまで追い込まれる場面が描かれていました。

マッサンが目指した本格的なスコッチウイスキーは当時の日本人にはなかなか受け入れられず,会社経営も苦しい状況が続きました。ドラマではリンゴ汁の生産打ち切りが原因のように描かれていましたが,実際にはリンゴ関連商品の開発も行われており,経営事情はより複雑だったようです。しかし,戦争で洋酒輸入の途絶えるとニッカウヰスキーは海軍指定工場となり,さらに戦後は進駐軍向けの需要にも支えられたことで,本格ウイスキーづくりを守り抜くことができました。
海軍指定工場~戦後の進駐軍

・ ハイランドケルトのモデル
平和な時代には売れずに苦戦したニッカウィスキーが,皮肉にも戦争と占領という激動の時代によって生き延びたのです。マッサンが理想としたウイスキーづくりを支えたのが,結果として戦争による需要だったという点は,日本のウイスキー史の中でも非常に皮肉なエピソードだと思います。マッサンを見ていると,一つの企業の歩みの背後には,個人の努力だけでなく,その時代の社会情勢や国際情勢が大きく影響していたことを改めて考えさせられます。理想だけではなく,時代の流れそのものが企業の運命を左右することを,このドラマは静かに教えてくれているように感じます。
ちょいとブレイク

爆撃されなかったマッサンのウィスキー工場
ところで戦争による空襲被害を見ると,原爆が投下された広島・長崎と人口の多い東京の3都県だけで,犠牲者数は全体の約77%(32万)を占めているそうです。全体的な傾向としては,やはり人口の集中する都市部ほど被害が大きかったことが分かります。一方,鹿児島県は空襲回数が東京に次ぐ63回と非常に多く,犠牲者数も人口比率から見ると突出していました。これは本土最南端に位置するという地理的条件が大きく影響していたのでしょう。
また,終戦の約1か月前にあたる昭和20年7月14日・15日には,北海道各地も大規模な空襲を受けました。いわゆる「北海道空襲」で,この2日間だけで1200人以上の犠牲者が出ています。余市にも米軍機が飛来し,爆弾2発が投下されました。しかし,ニッカウヰスキーの工場は攻撃目標にはされませんでした。これについては,戦後に米軍が工場や貯蔵されていたウイスキーを接収する計画を持っていたためではないかとも言われています。
実際のところは分かりませんが,戦争末期には日本降伏後の統治を見据え,攻撃目標の選定に差があったという話も各地に残っています。ニッカウヰスキーの工場が空襲を免れた理由については諸説ありますが,戦後を見据えた米軍の判断が影響していた可能性も考えられます。
朝ドラ「マッサン」を見ていると,この話はなかなか興味深く感じます。もし戦時中にこの話が広まっていたら,ドラマでも描かれた「エリーはスパイではないか」という根拠のない疑いを,さらに強めるエピソードになっていたかもしれませんね。
空撮で筒抜けの軍事情報
また,このことからも分かるように,アメリカ軍は暗号解読や航空写真などを通じて日本国内の軍事施設や重要施設の情報をかなり正確に把握していました。鹿児島県内の特攻基地なども撮影されており,情報収集力の面でも日本は大きく後れを取っていたことがうかがえます。

・米軍が撮影した青戸飛行場
| 24年8月10日の当ブログで紹介した「幻の旧陸軍まのひ(青戸飛行場)回顧録」に北海道と同じく米軍の空撮で飛行場や軍事基地が米軍に知られていたことが分かっています。 頴娃町青戸の飛行場建設はまさに突然始まったそうです。戦争開始からまだ1年もたたない頃,知覧飛行場には南北方向の滑走路が1本しかなく,天候や風向きによっては離陸が難しいことがありました。そのため,近くに全天候型の補助飛行場が必要とされ,青戸~加治佐間に広がる台地が候補地として選ばれたといいます。 昭和18年の春のある日,1機の大型双発輸送機が突然現れ,青戸から知覧にかけて超低空で何度も旋回し始めました。その後も約1か月にわたり,ほぼ毎日のように飛来して現地調査が行われたそうです。そして5月末になると,陸軍のブルドーザーやトラクター,ローラー車などが大量に集まり,本格的な工事が始まりました。 しかし,この飛行場は完成を見ることなく,昭和20年3月18日の米軍による攻撃を受けます。滑走路は舗装されないまま,小型機の離着陸訓練に利用されたようですが,結局一度も実戦で使われることなく工事は中断されたと伝えられています。 |

・地図上に示した青戸飛行場
このような航空写真を見ると,アメリカ軍がいかに詳細な情報を把握していたのかがよく分かります。工場や港湾施設,鉄道網などを正確に調査し,攻撃目標を選定していたことがうかがえます。もし日本の降伏後の統治まで見据えて空爆の対象を選んでいたのだとすれば,その計画性には驚かされます。一方で,そこまで先を見通していた相手と戦争を始めてしまったのはなぜだったのかとも考えてしまいます。
当時の指導者たちにはさまざまな事情や判断があったのでしょうが,戦後のことまで視野に入れていた相手との国力や情報力の差を思うと,あらためて戦争の恐ろしさを感じます。
