宮崎県えびの市と鹿児島県湧水町の県境

 当ブログで,霧島山系の県境画定の歴史について紹介してきましたが,高千穂峰や韓国岳といった象徴的な山々を含む県境がどのように定められていったのかは,この地域の歴史や文化を理解する上で重要なポイントです。

霧島山の位置付け

 藩政時代から明治期にかけて,薩摩の役人たちは霧島山の扱いに強い関心を持っていましたが,その経緯の中で,一時期設置されていた「都城県」が大きな影響を及ぼしていたことが考えられます。現在の県境画定に至る詳細な経緯については県レベルでは記録がほとんど残されていません。しかし,周辺市町村の郷土誌にはその過程を記した記述も見受けられ,これらは地域の歴史や文化を解明する上で重要な資料となっています。こうした資料を手がかりに,これからも霧島山と県境に関する歴史を紐解いていきたいと思います。

 また,薩摩藩の役人たちが霧島山を,天皇を中心とする国づくりにおいてどのように位置づけていたのかにも注目する必要があります。その背景には,神道信仰を基盤とした国家体制の確立や,廃藩置県後の国威発揚といった政策的な意図も絡んでいたのかもしれません。こうした視点も踏まえながら,霧島山と県境の歴史的意義を探求していきたいと思います。

えびの市と湧水町の県境

 今回はえびの市と湧水町の県境について,「国土地理院地図」と「緯度経度地図」をもとに現地を訪ねてみました。この県境は,鹿児島県内で唯一画定されていない地点とされています。

 国道447号線の最高地点(標高595m)沿いに,「県道大口真幸線 県境 鹿児島県・宮崎県(昭和46年3月開通)」と刻まれた石碑が建っています。この石碑から南下し,尾根伝いに800m程進むと,黒園山です。標高差は単純計算で43mほどですが,アップダウンの多い地形でピンクリボンも少なく,結構難儀しました。

 黒園山の山頂(標高636m)からは,広大な山並みが一望できます。この山頂から肥薩線が通る地点までが,「県境未画定区間」に当たるようです。石碑の裏面に刻まれている沿革に「水の争い」と記されており,その原因の一つであるようです。

県道大口・真幸線の沿革

 県道大口~真幸線は水の争いから2898mは町道として供用されていたが,戦前1500m新設され,また,昭和28年度までに1050m新設された。その後鹿児島宮崎両県が一般県道に昇格することになり,鹿児島県が昭和34年6月2日,宮崎県が昭和34年6月1日県道認定されたが,延長13384mは未開の路線で昭和32年年度から37年度まで凡県費補助事業として大口市が延長1419m事業供資8,966,700円で施工し,その後鹿児島県において昭和38年度から国庫補助事業(道路新設改良工事)として延長56712m事業費155,150,000円で施行され宮崎県は真幸駅から真幸橋まで11540mは町道として供用されており未開部分6192mは昭和40年度から国庫補助事業(道路新設改良工事)として延長6292m事業費165,700,000円で昭和46年3月完成開通したのであります。        昭和46年3月 大口土木事務所

 山裾の集落はどちらも川内川流域に属しており,当初は「山の争い」と考えていました。しかし,藩政時代にはなかった争いが,県が分かれたことで話し合いが難しくなったのでしょうか。いずれにせよ,どちらの集落にとっても「水の確保」が死活問題だったのです。

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