日当野住吉神社の由来と白サギ伝説

 国道268号線の県境峠から水俣側に1~2キロ進んだ林道の入口から尾根伝いに下ると,奥に開けた神社が現れました。鳥居の前には大きな黒い鹿の像が建っており,「この地域の守り神だろうか」と一瞬思いました。しかし,その「像」が突然サッと神社の奥へ走り去っていったのです。なんと,像だと思っていたものは本物の鹿でその大きさに驚かされました。

 「もしかすると,この神社の守り主が現れたのかもしれない」と頭をよぎり,案内板を見に行きました。そこには,この住吉神社が久木野郷七ヶ村の氏神であることや,神社にまつわる伝説が記されていました。

 また,水俣に伝わる「日当野の一夜城」の伝説によると,ここ日当野の地は,1587年5月27日,島津征伐を終えて帰途についた秀吉が一泊した場所だそうです。日当野集落の山腹には「太閤岩」と呼ばれる大岩があり,鹿狩りをしていた秀吉がこの岩の上で休憩し,一夜を過ごしたと語り継がれているそうです。(先の黒い鹿はこの時の霊だったりして…)

 翌朝,秀吉が目を覚ますと,ちょうど日の出で朝日が輝き,日当たりの良いすがすがしい朝だったことから,この地を「日当野」と名づけたという言い伝えが残っています。しかし「日当」の地名は,太閤検地の際に年貢上の上田に当たる地名とされており,後世に作られた話であると考えられます。日当野地区は山間に開けた小盆地で,地形的には「木場の集積場」や開けた田畑があったのでしょう。周辺からは縄文土器,弥生土器,須恵器などが多数出土しており,かつてこの一帯には沼地が広がっていたと言われているようです。 

・ 住吉神社(久木野郷7ヶ村の氏神)にまつわる伝説

 嘉吉3年(1443)室町時代,足利将軍の頃,薩摩の国から追われてきたある重犯罪人が,この地 日当野まで逃げ延びてきましたが,次第に追い詰められ逃げ場を失ってしまいました。犯人はこの境内の池の縁に立っていた三本の杉木の一本によじ登り,身をかくしていました。やがて追手も,この神社までたどりつき,一時休息,渇いた喉を潤そうと池を覗き込んだところ,池面に映った杉の梢に真っ白な白サギが見えました。ふと追手が杉を見上げたとき,犯人は発見されてしまったのです。思わず追手は聖地であることを忘れ,弓を射込み,犯人は池に落ち捕らえられてしまいました。この事件で,この聖地が血で汚されたため,それ以来湧水は止まってしまいました。犯人は,白サギを逆恨みし,処刑されるとき日当野に,白サギが飛んで来れば不吉なことが起こらんことをと,叫びました。以来,この地には一度も白サギは飛んでこなくなりました。

 平家の落人伝説以来,こうした伝承は九州の辺境地に多く残っています。特に戦国時代には,島津氏,大友氏,龍造寺氏による領土拡張の戦乱が激化し,天草をはじめ肥後南部や日向国など,小国に分断された地域には同様の伝説が数多く語り継がれているようです。この伝説では薩摩の国からきた重罪罪人(薩摩島津?)の設定で,この地には水俣城攻略「相良征伐」の折,新納忠元が立ち寄っています。地元の人の恨みが伝わってきます。

※ 同じような話が伝わっていますので,以前紹介した伝説を再掲します。

➀「獅子谷七郎」の伝説

 島津勢に攻められて,亡くなった七郎を偲び,やがて七郎が逃れた山頂を「七郎嶽」と呼ぶようになりました。「我は決して負けていなかった。ただキジの羽の付いた征矢一本で死ぬ。永遠にこれを恨む。今後この島にキジ(薩摩に寝返った武将たち?)の住むことを許さない。」との遺言により,獅子島にはキジが住まなくなったと言われています。

② 鎌倉期の平家の落人伝説~七郎山伝説~

 獅子島には壇の浦の戦いに敗れた平家武将にまつわる二つの「キジの伝説」が残っています。時を越えて,薩摩の藩政時代に敵方の英雄伝説として一部混同したものと考えられます。

 「源氏の追っ手が獅子島にも迫り,落ち武者の大将たちは山頂(七郎山)まで退去したが部下は全員戦死し,大将一人追っ手の目をくらまし隠れ場所を探し求めようとしたところ,数十羽の「キジ」が武将に驚き,一斉に飛び立ち騒いだため追っ手に発見され首を挙げられてしまった。まさに死なんとするに当たり武将は,天を仰ぎ,眼を見開き,口をいからし「キジ」(平家の世話になりながら源氏についた裏切者?)を睨みつけ,「今日限り,この島に我が魂魄は止まじ,悪鬼となりてこの島の「キジ」は呪い殺さん」と絶叫しました。その日のうちに獅子島の「キジ」はことごとく死に,この後も獅子島に「キジ」が飛んでいくと直ちに死ぬという言い伝えも残っています。

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