異論・反論~議論・討論③「教職調整額と残業」

超勤訴訟の経緯について

 戦後10年以上が経過した昭和31年度の経済白書には,「もはや戦後ではない」という言葉が登場しました。この言葉は,焼け野原から住宅や水道,道路,公共施設などの整備が進み,物質的な戦後復興が終わり,新しい時代に向かおうとする当時の状況を象徴した言葉です。

 日本は西洋諸国を見習い,その後の高度経済成長期に奇跡的な経済復興を遂げました。この流れの中で,西洋諸国を参考に労働環境を含む新しい日本の姿を目指す機運が高まりました。単にがむしゃらに働いて復興を目指す時代から,労働環境の整備や近代化を通じて安定的な経済成長を求める時代へと移行したのです。

超勤訴訟

 こうした時代背景の中で,教職員も「聖職」という言葉で阻まれていた自らの労働環境を見直し,改善を求める動きを始めました。その一環として起こされたのが,いわゆる超勤訴訟です。

 教員の超過勤務については,昭和40年代から始まります。「超勤訴訟」が全国一斉に提起され,最高裁での判決は当然,教員原告団の勝訴になるわけです。それを受け,文部省と人事院との会談が行われ,「教員の勤務の実態を明確にする必要があり,両者協力して,調査,検討する」との趣旨の確認が行われ,昭和41年度間の教職員の勤務状況の全国一斉実態調査が行われ「4%」という数字が出てきたのです。

県内では恵まれた給与水準

 祖父も教員をしており,戦前の給与が80円程度で,その他地域住民からの補助もあったと聞いたことがあります。また,父は昭和20年代当時の給与は7~8千円ほどだったそうです。どの時代も鹿児島県の教員の所得は,当時としては比較的恵まれたようです。

 私の初任時の給与は,民間での経験年数の半分に相当する2号給が加算されたため,民間時代と比較して4万円以上も上がり,大変驚いたことを覚えています。当時の鹿児島の民間企業の状況はやはり厳しかったように思います。

 しかし,上を見たら限がありませんが,全国規模の商社に勤めていた高校時代の友人とは月給で15万円以上,年収では500万円以上の差があり,愕然とした記憶があります。それでも,鹿児島県内で就職する場合,教員の給与は比較的恵まれた水準だったと思います。

民間時代との比較

 初任の頃の「教職調整額」は5千円程度でした。鹿児島の民間企業と比較すると基本給は高かったものの,民間企業には残業手当やその他の諸々の手当があり,月額収入では民間時代のほうが多かったのです。特に残業手当が給与より多いこともあり,収入的には満足していました。

 しかし,結婚など将来のことを考えると,全国規模の転勤や待遇面で不安を感じることが多いでした。また,役職手当が大きく,主任,係長,課長代理と昇進するにつれ給与が上がる一方,必ず転勤が付いてくるのです。故郷で働きたいことを第一に考えると,この先家庭を持つことに不安が残り,転職を考えたのです。

時間外勤務の法的規定

 教職員の時間外勤務については,「時間外勤務を命ずる場合に関する規定」の第3条で,「正規の勤務時間の割振りを適正に行い,原則として時間外勤務を命じないものとする」とされています。また,第4条には,時間外勤務を命じる場合は『超勤4項目』に限定され,「臨時又は緊急にやむを得ない必要があるときに限ること」が明記され,殆どの場合,時間外勤務は命令できないのです。

 しかし,修学旅行や集団宿泊学習以外で超勤手当が支給されたのは,長い教職員生活の中で一度だけでした。学校が土石流の被害を受け,職員室をはじめ校舎の1階部分が浸水した際の跡片付けのときだけでした。このような支給は非常に稀であり,それ以外の業務,例えば生徒指導で夜遅くまで家出した子どもの捜索に当たったなど,『超勤4項目』に該当している時間外の職員会議や生徒指導に関する業務であっても,超勤手当は支給されませんでした。給特法での4%「教職調整額」を「定額働かせ放題法」と揶揄する理由がここにあります。小学校の場合,調整額と言う呼び方でなく「修学旅行等手当」でいいのではないでしょうか。

 令和に入り,国の「学校の働き方改革」の一環として,「学校部活動及び新たな地域クラブ活動の在り方等に関するガイドライン」がだされました。ようやく部活やスポーツ少年団の問題点にも触れるようになりましたが,内容を読むと鹿児島県では,ほぼ無理なような気がします。

 「給特法」(公立学校等の教育職員の与等に関する別措置)は,昭和46年(1971年)に制定されてから約50年もの間,変わらず続いている制度です。当時は,スポーツ少年団という組織は大規模校にしか存在せず,その指導者は競技経験のある若手教員が「好きでやっていた」ことが多かったため,大きな問題にはなりませんでした。今のようなブラック問題は,昭和46年の調査以降に起因するものが多いのです。

 しかし,時代が進むにつれ,保護者から「サッカーができる先生を異動させてほしい」といった要望が県の人事にまで及ぶようになり,スポーツ少年団の運営は徐々に複雑化していきました。その結果,好きで指導していた先生たちが作り上げた運営面のシステムが今でも残っているのです。

 私自身,初任の頃,校長先生から剣道スポーツ少年団の指導を頼まれたことがありました。しかし,剣道の経験がなかったことに加え,初任者研修が忙しかったため断ることができました。しかし,再配の学校では若手には当然指導者役が回ってきました。

※ 「異論・反論~議論・討論」は,教員の諸問題の視点について,あくまでも教員側に立った提起です。異論・反論もあるでしょうが,ご了承ください。

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