鴨池飛行場
溝辺に鹿児島空港ができるまで,現在の県庁前にある広い道路が鴨池飛行場の滑走路でした。昭和40年代,小学校時代の親友が東京へ転校する際,仲が良かった学級の男子でバスに乗って鴨池空港まで見送りに行ったことを思い出します。

・ 現県庁地に在った鴨池空港
当時,現在の鴨池ニシムタ付近には飛行場の管制塔や待合所の建物がありました。それまでTDA(日本国内航空)YS-11のプロペラ機しか見たことがなく,初めてジェット機が滑走路から飛び立つ瞬間を目の当たりにしました。急にエンジン出力が上がると共に響き渡る爆音はお腹にまで響き,ものすごい迫力でした。

・ 現在の鴨池ニシムタにあった建物
その親友の父親は大手証券会社の鹿児島支店長で,「ジェット機に乗るのはお金持ちだけなんだろう」と子どもながらに思っていました。そして,「いつかこの飛行場からジェット機に乗って桜島を眺めてみたい」と考えていたのです。しかし,その数年後,飛行場は溝辺へ移転してしまい,その夢は叶うことはありませんでした。

・TDAのYS-11
当時,飛行場に勤めていた友人の親が市外への移転に反対していたこともあり,「海を埋め立てて広くすればいいのに,何故遠い場所に移すのだろう」と疑問に思っていました。鹿児島県の中央部で3000m級の滑走路が取れる平坦地は他になかったのでしょう。
後に聞いた話では,当時の知事と東急グループの五島社長たちの間で,鴨池に県庁や官公庁を移し,ホテルや企業,病院などが揃った新しい都市機能を作り,大隅半島とつなぎ,県の経済活性化を図るという計画があったそうです。その構想には,溝辺空港から鴨池フェリーまで「モノレール」でつなぐという案も含まれており,これもまた夢がある話だと思いましたが,結局,距離や採算面から実現することはありませんでした。(個人的には近隣市町村,特に谷山の埋立地や吉野公園(距離が取れないので国際線は無理)近くを造成し空港にすれば,モノレールも決して夢ではないような気がします。やはり羽田や伊丹(大阪),板付(福岡)空港のように県都の近くでないと観光客は少ないようです。)
おじさんの素人考え「空港とモノレール」
現在の鹿児島空港(溝辺)は,国内線17路線(離島7路線を含む)と国際線4路線の計21路線を有し,全国有数の地方空港となっています。国内線・国際線共に乗降客数ランキングで全国10位以内に入っており,鴨池から溝辺に移した当時の判断は結果的に正しかったと言えるでしょう。 しかし,市の中心部から40キロ以上離れているのは,やはり遠いと感じます。鹿児島特有の地形(錦江湾で分断された地形)も影響したのでしょうが,谷山南栄地区の埋立案では採算が取れなかったのでしょうか(当初いくつかの候補地の一つにに入っていたと聞いたことがあるような…?)。当時はまだ埋め立てていなかったか,殆ど空地だったように記憶しています。そう出来ない物理的・経済的理由があったのでしょうが,県のビジョンとして「県都」に近い場所とすれば乗降客数はさらに増加していた可能性が高かったはずです。 もし空港が谷山地区に建設されていた場合,中心部から12〜15キロとアクセスが良くなり,モノレール構想も現実味を帯びていたのではないでしょうか。日本のモノレールの平均営業距離13キロに近く,市電の代替手段としても有効で,車道を広く確保する余地も生まれたはずです。 |

友人の見送りの後,みんなで鴨池動物園まで歩き,そこからバスで帰りました。飛行場での別れは列車や船ほど悲しくないように思えましたが,それでも親友との別れはとても寂しいものでした。
海軍航空隊の基地
さて,特攻基地に話題を移します。鹿児島市の資料によると,昭和7年に市営の水陸両用飛行場が建設され,戦時中は海軍航空隊の基地として利用されていたそうです。その後,昭和32年に鴨池空港として開港したとのことです。

・新川を境に,赤枠の航空基地と黄枠の予科練地区が分かれていました。

・戦時中の米軍の航空写真と現在の地図を見比べると,国道225号線(谷山街道)や産業道路より東側の与次郎や県立緑地公園,オプシアミスミなどは埋立地であったことがわかります。
指宿海軍基地から飛び立った特攻隊員の遺言書
※ 慰霊碑公園(指宿海軍航空基地跡)の説明板に,僅か16歳で戦死した若き特攻隊員の遺書が掲載されていましたので紹介します。
兄は昭和20年5月4日,神風特別攻撃隊水心隊員の操縦員として,香川県詫間基地から指宿に集結の上,沖縄近海のアメリカ艦船を攻撃目標に出撃し,お国のために還らぬ人となりました。享年わずか16歳と6ヶ月,全国最年少の神風特別攻撃隊員でした。(戦死後,海軍少尉に特進) 愛知県立中学校から特攻隊員として,戦死したのは兄只一人だそうです。 兄は昭和16年に市立小学校を卒業し,中学校に入学しました。その年の12月8日に大東亜戦争(第二次世界大戦)が始まり,当初こそ戦果を挙げていた日本も昭和18年には泥沼状態に陥っていました。国は若くして純粋で優秀な戦闘要員の確保のため「予科連」制度を創設していました。生一本な性格でリーダー格であった兄は「お国のためだ。今,自分がやらなければ誰がやる!」と両親を説得し,中学3年生,14歳で第13期海軍甲種飛行予科練習生に応募し,合格しました。厳格な規律と昼夜を分かたぬ猛烈な訓練のもと,少年航空兵として成長していきました。 そして昭和20年,戦局はますます悪化,最後の手段として,生きては還れぬ片道燃料の水上機に500kgの爆弾を抱え,沖縄の海で敵艦めがけて突撃し,戦死を遂げました。私はこの平和で豊かな日本を思うとき,「自分がやらなければ…」と戦場に赴いた兄の行為を埋もれさせてはならないといつも考えておりました。兄を忍び毎日線香を絶やさなかった父母も逝き, 後を取った次兄も亡くなり,今は妹の私が兄・龍三の霊を祀っています。私は兄が亡くなった時,わずか11歳ですから当時の記憶は曖昧ですが,印象に残ったことを列記してみます。 ・ 予科練募集に対して一途に「お国のため」としぶる両親を真剣に説得して応募したこと。 ・ 我家を出る時には,気合の入った立派な挨拶をし,町内の人々が,日の丸の旗を振って送ってくれたこと。 ・ 松山航空隊に入隊してから二度母と面会に行ったこと。1回目,テントのところで待っていると,行進するような歩き方で上官の方に敬礼している様子を見て,立派になった兄を誇らしく思いました。2回目,空襲に会い,兄に会えず帰る汽車の中で母がずっと泣いていました。私も我子を持つ身になって初めて,その時の母の気持ちが分かりました。 ・ 一度帰省が許され,我家に帰ってきた時のこと。弟の昭午が「僕も予科練を受けるよ」と言った時 「俺一人でいい。お前は受けるな」と厳しい口調で言いました。多分,命をお国に捧げる覚悟でいたので,お前まで死んだら両親は嘆くだろう,また厳しく辛い訓練は俺だけでたくさんだ,と言いたかったのかもしれません。多くの友人も会いに来てくれましたが,別れる時には「靖国神社で会おうな」と言っていたことが忘れられません。 ・ 兄の特攻死を知らされたこと。私の家は市の中心部にあったため,戦災被害も少しでも食い止めようと,強制立退きを受け疎開していました。そこへ海軍の上官の方が兄の遺言書を持ってきてくれ,初めて兄の戦死を知りました。幼い心にも万感胸に迫るものがありました。終戦の玉音放送を聞き,兄の遺言書を胸に握りしめて泣いていた父の姿が50年以上経った今も,目に焼き付いて離れません。この国難を救うために「俺がやらねば誰がやる」と固い決意で日本のために命を捧げた兄は無駄死だったのでしょうか。平和な戦後の日本で豊かな人生を送り,産業や文化の面でも国のために十分貢献できたのではないでしょうか。 今も私は5月には靖国神社での東京甲飛13期会等に参加し,兄と同期の方々と共に,兄や兄と同じように散華した方々の霊をお祀りしております。兄は靖国神社に神として祀られ,同期の方々が生ある限りいつまでも追悼の気持ちを表し続けてくださることに,深く感謝しますと供に心安らぐ思いでいっぱいです。 |
特攻の話をするとき,隊員や家族の気持ちを思うと,悲しいものが込み上げてきますね。この遺言書は妹の目で描かれています。わずか16歳と6ヶ月,全国最年少の特攻隊員で,自分が同じ頃と比較すると恥ずかしい限りで,平和な時代で良かったとつくづく思います。