昔の川はゴミ捨て場

学校でのゴミ処理について

 曾於郡に勤務していたときの話です。ある日,隣の小学校区の住民の方から電話がありました。「おたくの学校名が入った体操服などが捨てられていたので確認してほしい」という内容でした。

 その方のご自宅に伺って確認すると,それらの物は古くなって処分されたゴミ袋の中に入っていました。おそらく,ごみの分別が急に厳しくなったために,保護者の方が通勤途中にここのゴミ箱に捨てたのではないかということになりました。最終的には,その方が処分してくださることになりました。

世界一厳しいごみの分別

 日本は世界で一番ごみの分別厳しい国だそうです。ちょうどその頃,曽於郡のこの地域では,ごみ出しのルールが「日本一厳しい」と評判になっていました。つまり曽於地区が世界で一番厳しいということになります。例えば,給食用のジャムのビニール袋を開き,水で洗った後,ティッシュで拭き取るよう指導されたり,仕分けの袋が何種類も必要になったりと,細かいルールが課せられていました。この給食センターからの指導に対し,職員の中からは「水も使うし,ティッシュごみが増えるのではないか」などの多くの意見が出ました。「慣れるまでは,大変でしょうが環境問題の重要性を考え」,子どもたちへの指導をお願いしました。

 さらに,平成9年度には,文部省から「ダイオキシン類等の有害物質排出の懸念から,学校の焼却炉使用を禁止する」という通知が届きました。翌年から段階的に焼却炉の解体が進められましたが,それまではしばらく使用していました。

・学校の焼却炉

 前任校では,ごみ出しや焼却について特に問題なく対応できていたため,新しい勤務先では焼却炉の解体やリサイクル法が制定などその大きな改変には戸惑いました。

子どもの頃のゴミ問題について

 私が小・中学生の頃の甲突川は,今のように綺麗な川ではなく,でんぷん工場や食品工場などから流れ出る汚染水によって白い泡が漂い悪臭を放っていました。川岸には自転車や産業廃棄物が引っかかっており,役所から委託された業者が年に何度か撤去作業を行っていました。

 特に黒田川の汚れはひどく,川草は排水で汚染され色が変色していました。夕方になると近所のお母さんたちが生ごみを捨てており(それ以外のゴミは庭で燃やしていた),衛生状態は劣悪でした。私たちが「おばちゃんゴミを川に捨てたらダメだよ」と注意すると,「大丈夫,雨が降れば海に流れるから」と返されました。

 昭和30年代まで,生ごみは川へ捨てるのが一般的でした。その企業版ともいえるのが,水俣病の問題だったのかもしれません。また,学校では生ごみを校庭の隅に掘った大きな穴に捨てるのが普通でした。掃除の時間になると,掃除当番の子どもが各教室から出た生ごみ類は校庭に掘った穴に,燃えるゴミは焼却炉へ運んでいました。

 戦後しばらくは,鉄くずなども学校の校庭に埋めていたようです。そのため,雨が降ると地面から釘が出てきて怪我をする子どもも多くいました。今でも運動会の前には,校庭の石ころ拾いをしますが,当時は釘を見つけて集めるのが恒例でした。

し尿処理

 現在「し尿」は下水処理場で処理しますが,かつてはバキューム車で貯留船まで運び,沖合に海洋投棄されていました。鹿児島市は三和町の堤防からバキュームカーがホースで直接投棄していた所をみたことがあります。  

・し尿の海洋投棄の船

 地方にいた頃,父は便所の汲み取りをして畑にまいていました。余った分は,近くの農家のおじさんが肥料として利用するため,肥桶(糞尿を運ぶ桶)で運び出し,野菜と交換していたのを覚えています。市街地に引っ越すと,バキュームカーが二か月に一度ほど回収に来ていました。

・肥桶

 昭和40年代まで,鹿児島市の住宅街の一角にも畑があり,畑の端には肥溜め(野菜の肥料にするための糞尿をためた壺)がありました。私の学級では,男子のほとんどが落ちた経験があり,中には十回近く落ちた記録を持つ女の子もいました。発酵していたのか,それほど臭くはなかったようです。昔の肥溜めは畑の端にあり,野菜や雑草が大きく育つ頃には見分けがつかなくなっていました。そのため,元気よく遊び回る子どもたちにとって,落ちるのは避けがたいことだったのです。

買い物について

 昭和40年代までは,庶民が購入する醤油や焼酎は,今のような小瓶が無かったので「計り売り」が主流でした。洗った一升瓶を持参し,必要な分だけ計って購入するのが一般的でした。また,当時は急な来客があった際,隣の家から焼酎を分けてもらうこともありました。

・買物かごと経木

 私の家ではピンクの買い物かごを持って買い物に出かけていました。当然,レジ袋などはなく,包装も新聞紙が主流でした。また魚屋で刺身を買うと,薄い木の板「経木」で包み,輪ゴムで留めてもらいました。そして使えなくなった布切れや紙などは庭で燃やしていました。また地域住民も,幼稚園や小・中学校,地域の子ども会などの廃品回収に合わせて,瓶や新聞紙を貯めていました。そのため,ゴミ袋や空き瓶の処理に悩むこともなく,ゴミ問題を意識することもありませんでした。

 

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