税所敦子について(その二)

敦子の刀自について

 「マンガ日本昔ばなし」などで,村の危機などを救った亡き高齢者に敬称を付けて「〇〇翁(おきな)」と呼んでいましたが,その女性版の高齢者が「刀自(トジ)」に当たります。その地域の方が敬愛の気持ちを込めて呼ぶ敬称なのです。

敦子が薩摩にやってきた理由

 敦子は夫の死から一年後,篤之の郷里である薩摩へ赴き,姑に仕えながら子どもたちを育てる決心を固めます。良家の武士の家に生まれ,厳格なしつけのもとで育った敦子にとって,姑に仕えることは妻として当然の務めであると考えていました。

 敦子が薩摩へ下る際,周囲の親戚や友人たちは,「薩摩は辺鄙な土地であり,地元の人々は頑固で,よそ者を受け入れない」と,こぞって反対しました。実家の林家では両親がすでに他界しており決心したのです。敦子は皆の助言に感謝しつつ,次の歌を残して京を後にしたと伝えられています。

『子を思う 道なかりせば 死出の山 ゆくもかえるも まどはざらまし(敦子)』 

 この歌は,親が子を思う深い愛情と,死への迷いについて詠んだものです。一瞬,「薩摩行が死への旅立ち」を意味しているのかとも思いましたが,「子どもの将来を思う気持ちがあったからこそ,迷うことなく決心できた」という意味合いだと解釈しました。また,「我が子を残して逝かねばならなかった夫の悲しみ」も合わせて表しているとも考えられ,薩摩行きを反対する友人たちに対し,強い決意を示した歌ともいえるでしょう。

 夫と自分の両親を亡くした敦子にとって,当時京の中枢にいた師である八田友紀の支えや助言は大きかったと思われます。

 八田知紀は前藩主の斉彬や国父島津久光とも繋がっていたのです。その後の宮中での敦子の経歴を考えると薩摩行での八田の思惑すら見え隠れします。

姑のエピソード

 姑にまつわるエピソードとして,「結髪や食事の世話」「帯留めの紛失」「深夜の便所の世話」「すぐ怒る性格」「近所から鬼婆と呼ばれるほどの意地悪」「晩酌の習慣」などが広く知られています。しかし,江戸時代末期に還暦を過ぎた高齢の姑を考えると,これらの行動は認知症の症状だった可能性の方が腑に落ちます。

 私自身も両親の介護を自宅で経験しました。父は要介護5で寝たきりだったため比較的手がかかりませんでしたが,母は要介護3で,症状として「物忘れが激しい・怒りっぽい・夜中に近所を歩き回る」ことなどあり,十年近くの介護は心身ともに大変なものでした。自分の経験から敦子の姑の言動を考えると認知症の症状のような気がします。

 明治後期から戦前まで,敦子の作品や逸話は女学校の修身の教材や副読本に採用され,「婦徳と文才を兼ね備え,後進の鑑とされた」と教えられていました。しかし,このエピソードについては,薩摩の古老たちの間では「出来過ぎた話である」との意見があったようです。

 また,敦子を才女として称えるために姑を「鬼婆」として仕立てあげ,面白おかしく伝えられた話だとする見方もあり,むしろ姑の方こそ気の毒だったのではないかと同情する声もあったといいます。西南戦争以降の鹿児島の政府組と地元組の対立は深刻なものだったのです。

・ 高等女學校 終身教科書 明治37年(国書データベース)

修身(道徳)の良妻賢母の教材

 税所敦子(1825〜1900)は,死後に正五位を授かりました。敦子が亡くなった頃は,高等女學校制度の成立期に当たり,女子中等教育の理念として「良妻賢母」,すなわち女性が嫁,妻,母として果たすべき役割が修身教科書の教材内容として示されるようになりました。こうした敦子の実績を補完し,強調するために,「敦子の刀自」の逸話も語られたのでしょう。

 1903(明治36)に,初めて文部省から「高等女學校教授要目」が公布され,それに基づいて教科書が編纂されました。各高等女學校はこの要目に従い,各科目の教授内容や修身教育を定め,実践することとなったのです。その修身教育の中には,「女子は他家に嫁いだ後,舅姑と同居する場合でも別居する場合でも,常に尊敬の心をもってこれに仕えなければならない」といった教えも含まれていました。

 明治維新という新時代の成立期には,それまでの価値観を変える多くの困難が伴っていました。維新の志士たちと同じように,私たちは税所敦子と八田友紀が困難を克服しながら築き上げた世界を大切にし,受け継いでいくべきです。また,この二人は西田校区が生んだ,敬愛すべき稀代の歌人であったことに違いありません。

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