常盤町出身の歌人・八田知紀

幕末の国学者・歌人

 前回,「敦子の刀」の税所敦子につい投稿しましたが,今回の八田友紀は敦子の歌の師匠だけでなく,税所敦子を作った恩人とも言えるのです。

 鹿児島市常盤町出身の八田知紀(1799~1873)は,幕末に活躍した国学者,歌人,薩摩藩士で号は桃岡と名乗っていました。1863年,64歳のとき郁姫(斉彬の叔母)の入輿に伴い,近衛家に仕官し,勤王運動にも関わりました。明治維新後は,神祇省と文部省を兼務し,1871年(明治4年)には宮内省に出仕しました。翌年には歌道御用掛を命じられ,宮廷歌人としても活躍しました。

・常盤町の水上坂手前の生家跡

明治期の薩摩歌人の活躍

 「郷土人系」によると,明治の前半,鹿児島にとってはまさに「日の上る時代」と言えるものであり,当時の歌壇を支配していたのは,宮中のお歌所で活躍したいわゆる「お歌所派」と呼ばれる歌人たちでした。その主流を占めていたのは,八田知紀の門下で高崎正風,黒田清網,税所敦子らの鹿児島出身の歌人たちでした。政治家や軍人だけでなく,歌人たちもまた「薩州閥」として固められていたのです。

 その後,西南戦争や大久保利通の死を契機に,薩州閥の力が次第に弱まると,欧米諸国からの政治や文化の影響を受けて,各方面で自由な風潮が広がりました。その結果,旧派と呼ばれる八田知紀亡き後の税所敦子派は批判され,現代短歌史からは次第に除外されていきました。

旧派歌人に対しての批判

 この旧派歌人に対して鋭い攻撃を仕掛けたのが,鹿児島とも深い関わりのあった与謝野鉄幹でした。藩閥政治の批判が歌壇にも広がり,明治27年,彼は新聞紙上に「現代非丈夫的和歌を罵る」と副題を付けた「亡国の音」という歌論を発表し,旧派に対して厳しい批判を展開しました。

 香川景樹(八田の師匠)を「つまらぬ歌人」とし,彼を模倣しても「犬はわずかに犬を知り,蛙はわずかに蛙を知る」だけであり,その程度の歌人の枠を一歩も超えることはできないとしました。桂園派の歌は「女々しく弱々しい」と,徹底的に否定したのです。

 税所敦子の没後,「節婦」(節操を固く守る婦人,貞節な女性)として戦前の女子教育の教材に取り上げられた際にも,批判する人々が存在しました。しかし,やがて日本は戦争の時代へと進んでいくこととなります。その時,当時の「郷土読本」には「仏にもまさる心と知らずして鬼婆なりと人の言ふらん」と記されています。

 なお,八田先生幽栖(ゆうせい~俗世間から離れてひっそりと暮らすこと)の地は生家から550メートルほど登り樟南高校のグランドの横の桃岡公園にあります。長島美術館側の階段口から200メートル程で近道です。

・ 八田先生幽栖の地

谷峰城(桃が岡)

・ 谷峰城(桃が岡)公園由来

 ここは昔,谷峰城と呼ばれた山城の跡である。鎌倉時代から南北朝時代(1300年代中頃)島津貞久と肝付兼重との合戦,島津貞久と鮫島彦次郎入道との合戦があった古戦場跡で,今も空堀や土塁が残っている。また,明治天皇に歌道御用掛として和歌を教えた八田知紀が幕末しばらく庵を建てて住んでいたところでもある。
 八田知紀は1799年常盤の生まれで号を「桃岡」といった。大正3年八田知紀の業績を後世に残すために県知事渡辺千秋の文を加治木常樹(常盤学舎長)が謹書して,歌人たちがこの地に石碑を建立した。石碑の右には天保9銘年の芭蕉塚もある。江戸の昔からこの地は文人墨客の集う風雅な場所だった。八田知紀の号にちなんでこの地を「桃が岡」と呼ぶようになった。代表的な歌に「吉野山 霞の奥はしらねども 見ゆる限りは桜なりけり」 
                          平成20年7月 財団法人 自彊学舎
・「郷土人系」とは,編者が南日本新聞社で南日本新聞に昭和38年5月から41年2月まで連載された内容を,上・中・下の三巻にまとめたものです。各巻は以下の14分野に分かれています。
上巻: 「政界」「産業界」「学会」「芸能界」
中巻: 「教育界」「警察界」「実業界」「宗教界」「スポーツ界」
下巻: 「美術界」「文学界」「医学界」「市町村界」「労働界」
 特に「教育界」では162ページにわたって,森有礼から小学校校長まで,82のテーマを取り上げ,数多くの教職員が掲載されています。これは,戦後,激動の時代と言われた当時の教育界の様子をよく理解できる貴重な資料です。
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