白熊のエピソード
学生時代,文京区小石川に住んでいた頃,近くの白山通りにスイーツで有名なお店がありました。ある暑い夏の日,どうしても「白熊」が食べたくなり,そのお店で「白熊を一つお願いします」と注文いたしました。すると,若い女性の店員さんが怪訝そうな表情で,「白熊って何ですか?」と聞き返してこられたのです。

その後,この話を友人たちにすると,「白熊は,鹿児島県民以外は知らないよ」と,県外出身の友人たちに笑われ,たいへん驚いたことをよく覚えております。
秘密のケンミンSHOW
平成に入り,「秘密のケンミンSHOW」というテレビ番組を楽しみに見るようになりました。各都道府県出身のタレントが,それぞれの地域ならではの行事や習慣,方言,食べ物などを紹介する内容で,学生時代や社会人時代の経験と重なる部分も多く,たいへん興味深く見ていました。
また,学生時代に仲間内の宴会などで「ご当地クイズ」をよく行っており,私は鹿児島の難しい方言や地名などをクイズの題材にしたこともあります。このクイズで,「川内」を「せんだい」と正しく読めた友人は一人もいませんでした。
川内の地名由来
薩摩川内市は,かつて映画『釣りバカ日誌』のロケ地となったことがあります。小林稔侍さん演じる馬場部長が,新田神社の階段で風吹ジュンさんと再会するシーンで,「君は仙台に帰ると言ったのに,どうして嘘をついたのか」というセリフがありました。
その話を聞いていたスーさんが,「河川の“セン”と境内の“ダイ”で,“センダイ”というのです」と言っていたのです。学生時代のご当地クイズで川内についてうまく説明できなかったので,今でもその場面をよく覚えております。
神話と地名
薩摩川内市には,薩摩国分寺跡や薩摩国衙跡の推定地があります。川内という地名については,かつて「千台」「千代」「千臺」などの表記がされていたと,『川内市史』に記されております。これは,ニニギノミコトがこの地に「千の台」を築いて統治したという神話に由来するものとされています。 そのほかにもいくつかの説があり,江戸時代中期,諸国の地図を作成する際に,幕府から川内川の名称を統一するよう求められたことを受け,1720年に当時の藩主島津吉貴公が「川内」の表記に統一したと伝えられております。
国分寺と国衙(役所)跡の推定地

・川内市御陵下町と国分寺町の堺の道に沿った住宅地

・川内市の地図上の「国分寺跡・国衙跡」~天神池と川内高校の間辺りです。
地名の「内」とは
川内川は周囲を高い山々に囲まれ,支流も多いことから,古くから肥沃な田園地帯として知られてきました。方言で親戚のことを「屋内(やうち)」といいますが,本家に寄り添う家の意味に当たります。地名に使われる場合も「内」は「寄り添う」という意味で,「川内」は「川沿いの地」を意味するとされます。
一般的には,「川内」という地名は「かわうち」や「かわち」「こうち」と読まれることが多いのですが,あえて「センダイ」という呼び名を残しているのは,可愛山陵に伝わる神話の影響も考えられます。

また,川内川の上流やその支流では,「井関(いせき)」と呼ばれる方法で川を堰き止め,そこから水を農地に引いて川田を開墾していたと伝えられています。ただ河口域は川幅が広く災害が多い所で近くの田は,川田(川の水を利用した田)ではなく,山田(山の水を利用した田)であったようです。
仙台と川内の地名由来
地名には東京・京都・佐賀のように音読みのものもありますが,全体としては訓読みが多く,「仙台市」や「薩摩川内市」は珍しい例といえます。仙台市の広瀬川沿いの青葉城近くには川内「カワウチ」という地名も残っていますが,仙台の字が充てられ鹿児島の川内のように地形由来ではないようです。 仙台の地名の由来については,1592年まで国分氏が治めていた城があり,古くから千体仏がまつられていたことから「千体城」,のちに「千代城」と呼ばれるようになったという説があるそうです。1596年,国分氏の当主が出奔し,千代城は廃城となりました。 その後,関ヶ原の戦いの後に伊達政宗がこの地に新たな城を築き,「千代」から「仙台」へと改名しました。政宗は中国の詩「仙人が住む理想の高台(仙台)」から引用し,理想的なまちづくりを目指したといわれています。仙台藩の正史『伊達治家記録』には,1600年に政宗が「千代城」を「仙臺城」と改称したと記されているようです。 |

・広瀬川沿いの「かわうち」地区