ああ,須田訓導(遠く海を見つめて)
曽於地区に勤務していた頃,管理職の研修会で,ある校長経験者の講話を聞く機会がありました。その方は曽於地区の柏原小学校の卒業生で,そこで「教鞭を執っていた須田訓導にあこがれて教員になった」という話をされました。

・須田久徳訓導(教諭)
私は以前から,須田訓導の名前を道徳の副読本などで知っていましたが,詳しい話を聞いたのはその時が初めてでした。その後調べてみると,須田訓導は昭和12年(1937年)6月28日,柏原海岸で溺れていた3人の子どもを助け,28歳の若さで亡くなっています。この出来事は,地域に伝わる教師の姿として長く語り継がれ,戦前には国民学校の教材として忠孝などの精神と結び付けて取り上げられ,その後も鹿児島県の郷土教育や道徳教育の教材として受け継がれてきました。今でも道徳教材「ああ,須田訓導(遠く海を見つめて)」として見ることができます。
もちろん,当時の教育的な価値づけには,その時代特有の背景があります。しかし,一人の教師が子どもを助けるために自らの危険を顧みなかったという事実と,その姿に感銘を受け,「あの先生のようになりたい」と教員を志した人がいたことには,今の時代にも通じるものがあると思います。
考えてみれば,昔の学校には,そこで勤務した教員や学校関係者の功績を伝える慰霊碑や記念碑が,各地に残されていました。災害の際に子どもたちを救い,自らは命を落とした先生を顕彰する碑もありました。私が入学した小学校にも,戦後,学校を襲った集中豪雨の際に子どもたちを救い,自ら命を失った先生の功績を伝える石碑がありました。そして命日になると,校長先生が全校児童にその出来事を話していました。
子どもの頃の私にとっては,毎年聞く話の一つに過ぎなかったのかもしれません。しかし,振り返ってみると,学校が自分たちの先輩や教師の生き方を伝え,「人のために行動するとはどういうことか」「教師とはどのような仕事なのか」を,自然な形で子どもたちに教えていたのだと思います。
ところが,数年前に母校を訪ねてみると,その石碑はなくなっていました。いつ撤去されたのか,理由までは分かりません。校舎の建て替えや敷地整備,安全管理などやむを得ない事情があったのだろうと思います。(教職員から軍国主義を思い起こすとの意見から撤去されたケースもあったそうです)それでも,長年そこにあった碑がなくなっているのを見ると,何とも寂しい気持ちになりました。学校の統廃合や校舎の建て替えなどによって,こうした学校の記憶も少しずつ姿を消しているように感じます。
教員に希望する選択肢
戦後の高度経済成長期には,就職するにもさまざまな選択肢があり,都会へ出る人もいれば,地元に残って働く人もいました。そうした時代までは,身近な先生にあこがれ,「自分も先生になりたい」と思った子どもがいたことは,決して不思議なことではありません。「でもしか先生」と呼ばれた時代でもありましたが,なお教師という仕事に魅力や誇りを感じて選んだ人も少なくなかったと思います。
私自身は,両親や親戚など身近に教員が多かったため,むしろ「教員には絶対なりたくない」と思っていました。教員になろうと強く考えるようになったのは,企業に勤めて仕事の厳しさを経験し,これからの人生を考える中で,「鹿児島に残るなら教員という選択肢が最善である」と考えたことが,後に教員を目指すきっかけになりました。
それでも,子どもの頃から身近な先生の姿を見たり,学校に残された碑を見たり,校長先生から先人の話を聞いたりする中で,「先生とはこういう仕事をする人なのだ」というイメージを知らず知らずのうちにつくっていたのかもしれません。教師という仕事は,制度や待遇だけを見て選ぶと必ず後悔します。子どもの頃に出会った優しい先生の姿や生き方などから,「先生になりたい」と,その後の人生を決めていくことが多いのだと思います。

だからこそ,最近の教員報道を見ていると,少し気になることがあります。教員が子どもを救ったという話があっても,「教師なのだから当然だ」とされ,美談として大きく取り上げられることは少なくなりました。一方で,教員の不祥事については,全国各地の事例を集めて繰り返し報道することで,教員という職業全体に悪いイメージを持たせかねない場合もあります。
もちろん,不祥事の報道は必要です。子どもの安全や教育への信頼に関わる問題ですから,事実を明らかにし,必要な検証を行うことは報道機関の重要な役割です。ただ,それと同時に,毎日子どもたちと向き合い,目立たないところで一生懸命努力している大多数の教員の姿も伝えて(ブラック問題を解決し,教員希望者を増やす近道…)ほしいと思います。教師の仕事の魅力や誇りまで見えなくなってしまえば,「先生になりたい」と思う子どもが少なくなることにもつながるのではないでしょうか。それこそどこかの政治家の発言のように「教員になる人は貧しい人たちや仕事に就けない人たちなのです」と言われる時代がやってくるかもしれません。
教員不足が問題になっていますが,採用試験の倍率を上げるための制度や受験者を増やす対策だけでは十分ではないと思います。「教員になりたい」と思う子どもが育つ環境をどうつくるのかということも考える必要があります。
昔の先生がすべて立派だったわけでもありませんし,現在の教員が昔より劣っているわけでもありません。ただ,かつては学校や地域の中に,先人の話や教師の生き方を通して,「先生とはこういう仕事なのだ」と子どもたちに伝えるものがありました。須田訓導にあこがれて教員になった先生の話を聞いたとき,私はそのことを改めて感じました。
学校には,教科書には載っていない「学校の記憶」や「地域の歴史」,そしてそこで生きた人々の思いがあります。石碑がなくなっても,その記憶までなくしてしまう必要はありません。むしろ,そうした先人の生き方を今の時代に合った形で伝えていくことも,地域の学校の大切な役割ではないでしょうか。
教員不足を本当に解決しようとするなら,「どうすれば先生を集められるか」だけでなく,「どうすれば子どもたちが先生という仕事に夢や誇りを持てるか」まで考える必要があると思います。今の子どもたちにも「自分もこんな先生になりたい」と思える大人との出会いが必要なのではないでしょうか。
オールドメディアと報道の自由
| 販売部数を増やすために話題性ばかりを意識し,客観性を欠いた週刊誌のように不祥事を繰り返し強調する新聞記事が増えているように感じます。もちろん,不祥事を正しく報道することは報道機関の重要な役割です。しかし,問題なのは,一部の不祥事をことさらに取り上げ,あたかも組織全体に問題があるかのように報じることです。 その一方で,SNSを「デマが多い」と批判し,選挙期間中の情報発信を規制する法改正まで求めるオールドメディアには,自分たちが長年行ってきた手法との違いをどこまで認識しているのか疑問を感じます。相手の情報発信だけを問題視し,自分たちの報道の在り方を問わないのであれば,「表現の自由」を守る立場の報道機関が,結果的にその自由を自ら狭めることにもなりかねません。 また,最近の報道を見ていると,警察や官庁など反論や取材がしにくくなる影響を考えなければならない相手よりも,反撃できない教員や各種団体,(CMの少ない)企業などに批判が集中しているようにも見えます。米の価格高騰が問題になった際にも,関係性の深い農協には厳しい追及が向かわなかったという感想や疑問を持った人も多かったと思われます。こうした姿勢が続けば,ジャーナリストとしての公平性そのものが問われることになります。 さらに,広島県知事選のように記者クラブを通じて各社が同じ情報を受け,ほぼ同じ内容を一斉に朝から晩まで報じる異常な状況を見ていると,「これが本当に報道の自由なのだろうか」と疑問を感じます。戦時中の大本営発表と何が違うのかと言いたい,少なくとも,多くの社が同じ情報を同じ方向から繰り返し報じるだけでは,新聞本来の役割である権力の監視や独自取材とは言えないのではないでしょうか。前知事の巨額の公共事業の弊害について論じたメディアが無く,同じ既得権益を享受していたからと言われる所以なのでしょう。 特に最近の報道では,辺野古問題(女子高校生の死)やその後の沖縄知事選(大差で負ける)など,オールドメディアにとって都合の悪いニュースを隠すため,教員の不祥事報道が目立つという批判もあります。もちろん,個々の報道について因果関係を断定することはできません。しかし,これまでと同じような報道が繰り返されれば,「何か別の問題を隠しているのではないか」と受け取られてしまうのも無理はありません。 今では,国民は新聞やテレビだけでなく,SNSや動画,インターネット上のさまざまな情報源を比較しながら,自分で判断するようになっています。一方的な報道だけで世論を動かすことが難しい時代になったからこそ,新聞にはむしろ大きな役割が残されていると思います。 新聞が生き残る最後のチャンスは,これまでのやり方に固執することではなく,自らの足で取材し,他社とは違う事実を掘り起こし,権力にも広告主にも忖度せず,社会に本当に必要な情報を伝えることではないでしょうか。それができなければ,新聞自身が,長年築いてきたジャーナリストとしての貴重な役割を自ら手放してしまうことになると思います。 |

ちょいとブレーク

記者クラブで説明した経験
| 記者クラブといえば,20数年前,私自身も以前,一度だけ記者クラブを訪れ話をする機会がありました。「県外の地域も巻き込んだ比較的大きな国際交流事業」を開催することになり,定例記者クラブの一部の時間を戴き,報道していただくために説明に出向いたのです。 そこには5人ほどの記者がいましたが,私の話をまっすぐ向いて聞いていたのは,一人の若い女性記者だけでした。残りの4人は,肘をついたり,足を組んで横を向いたりしながら,いかにも面白くなさそうな表情で座っていました。こちらは報道してもらえるかどうかという思いで緊張していましたので,その光景はよく覚えています。質問もまったくなく,結局,関係者の司会者が気を遣って質問を振ってくれたほどで,説明は十数分で終わりました。 教員も,服装や態度など社会人としての態度を指摘されることがありますが,目の前にいた記者の姿を見て,「社会人としての態度,以前の問題ではないか」と感じたことを,今でも覚えています。 それでも行事翌日の新聞には,イベントの写真が一枚掲載され,短い記事も載っていました。記事が掲載されたこと自体はありがたいことでしたが,実際に記者クラブを訪ねてみて感じたのは,報道する側と報道してもらう側との間には,思っていた以上に大きな距離があるということでした。 これまでの報道を見聞きして,新聞や記者クラブについて考えるとき,私は今でもあの日の記者たちの姿を思い出します。ジャーナリストには,記事を書く技術だけでなく,まず取材する相手の話を聞こうとする姿勢が必要なのではないでしょうか。 |

