亡き中村ゆりさん
朝ドラ『エール』ではわずかな出番でしたが,永田博士の妹・ユリカ役を演じた今は亡き中村ゆりさんの抑えた表情の中にさまざまな思いをにじませる演技が心に残りました。雄一と博士をつなぐ橋渡し役として,二人の出会いから名曲誕生へと導く重要な役どころを,見事に演じていました。
ドラマの中で雄一は,「戦争と平和」という大きなテーマを前に,どこから曲の着想を得ればよいのか悩みながら長崎を訪れます。そこで博士から,「どん底まで落ちても大地を踏みしめ,ともに頑張れる仲間がいてこそ,本当の希望が生まれる」という話を聞きます。
原爆で焼け野原となった長崎にも,鐘の音や子どもたちの声が響き,そこから未来への希望が生まれている。そのことに気づいたことで,それまで答えを探して立ち止まっていた雄一の心が,大きく動き始めます。帰りの汽車の中では,窓の外に流れる風景を見つめながら,何かに突き動かされるように楽譜を広げ,懸命に音符を書き始めます。この場面は,雄一の中で「戦争と平和」という大きなテーマが,ようやく一つの音楽へと形を変え始めた瞬間で私の好きな場面です。

119番コール
中村ゆりさんといえば,以前出演していたドラマ『119エマージェンシーコール』も印象に残っています。ここでは,司令課の係長役を演じていました。「火事ですか,救急ですか」という言葉から始まる,緊張感のある119番通報を題材にしたドラマです。電話の向こうで起きている一刻を争う出来事に,声だけを頼りに対応する司令員たちの仕事を丁寧に描いていて,派手さはありませんが,とても重みのあるドラマでした。私も毎回,引き込まれるように見ていました。
私は管理職が長かったこともあり,現職時代には十数回,119番通報をした経験があります。また何度か救急車に同乗して,病院まで付き添ったこともありました。特に4月は,新一年生がまだ学校生活に慣れていない時期で,登下校中に道路へ飛び出すなどして救急車を呼ぶこともありました。
実際に119番へ電話するときは,「怪我はどの程度だろうか」「救急車は直ぐに来るのだろうか」と緊張します。そんなとき,電話の向こうの司令員が落ち着いた声で必要なことを一つ一つ確認してくれると,こちらも次第に冷静になっていきました。『119エマージェンシーコール』を見ていると,そんな現職時代の出来事がいろいろと思い出されました。今回は,救急車に関する思い出になっている出来事をいくつか紹介したいと思います。

手術室での立ち眩み
平成の初め頃,図工の版画の時間に,ある子どもが彫刻刀で左手の人差し指を切り,かなり出血したことがありました。学校近くの校医さんの病院へ連れて行くと,医師から「何針か縫うので,先生も立ち会ってください」と言われ,そのまま手術室に通されました。

医師が子どもの指を開いて見せながら「3針は縫わないといけません」と説明したのですが,その指から流れる血を見た瞬間,突然立ち眩みがしました。辛うじて近くの椅子に腰をかけることができました。それまで血を見るのが苦手だったわけでもなく,本当に突然のことで,自分でも驚いたことを覚えています。
今では,親族でもない学校の先生が手術室に入り,治療に立ち会うことは考えにくいでしょう。しかし当時は,学校で起きたけがについて,教師が病院まで付き添い,治療に立ち会うことも,それほど珍しいことではありませんでした。

※ 個人情報について
個人情報ですので教えられません
話は変わりますが,平成15年頃になると,個人情報に対する考え方が大きく変わってきました。
あるとき,登校中の児童が交通事故に遭い,私が救急車に同乗して病院まで行ったことがありました。病院では,受付で子どもの名前や事故の状況などを伝え,検査が終わるまでロビーで待っていました。やがて子どもが一般病室に移されたので,「怪我の状況はどうですか」と尋ねると,受付の方から「個人情報ですので,お答えできません」と言われました。「今,保護者に連絡を取っています。症状だけでも教えてもらえませんか」とお願いしても,答えは同じでした。
担任と連絡を取っていると,受付の方から「保護者の携帯番号を教えてください」と言われました。思わず「それも個人情報ではないのですか。個人情報を守るのは病院だけではないですよね」と言ってしまいましたが,言い合っても仕方がないので,直ぐに知っている連絡先を伝えました。その後,学校からも保護者にこの病院で治療していることを知らせてくださいと言われ,「あとは病院の方でお預かりしますので,お帰りください」と告げられました。
同じ救急車に乗って病院まで来て,私自身も免許証で身元を示し,受付でも事故の状況や子どものことを説明しているのに,こちらには怪我の状況を何も教えてもらえない。そのことに,当時の私はかなり驚きました。
今であれば,病院にも個人情報を守るためのルールがあり,患者の情報を簡単に伝えられないことは理解できます。しかし,これは20年以上前の話です。当時の私には,個人情報を守ることが,少し「過剰反応」になっているようにも感じられました。
厳しくなった個人情報
昭和から平成の初め頃まで,学校現場では「個人情報」ということを,今ほど意識していませんでした。担任の机や教室には,保護者の連絡網や児童・保護者名簿があり,住所や勤務先,役職,電話番号,兄弟の学級なども記載されていました。何かあれば,教室からすぐに家庭や職場に連絡することが当たり前だったのです。

その後,インターネットの普及とともに個人情報への関心が高まり,2003年(平成15年)に個人情報保護法が成立すると,社会の意識も大きく変わっていきました。
学校でも,詳しい名簿や連絡網を作らなくなったり,集合写真や行事での写真を無くしたりするなど,安全を優先するあまり,「そこまで必要なのだろうか」と思うような対応も見られるようになりました。保護者からも,こうした対応への疑問や反対の声が出ています。
最近の学校ホームページを見ても,個人情報を気にするあまり,子どもたちの活動を紹介しているのに,誰が何をしているのかよく分からない記事になっていることがあります。それなら,無理に掲載しなくてもよいのではないかと思ってしまいます。

もちろん,個人情報を守ることは大切です。ただ,「何でも個人情報だから」と必要以上に避けるようになれば,本来守るべきものとは別のところで,不便さが増えてしまいます。個人情報を守るルールの厳格化と,必要な情報は適切に共有することのバランスが大切なのではないでしょうか。
待っていたのは母親
これも同じ学校での出来事です。ある朝,子どもたちが職員室に駆け込んできて,「〇年の〇〇君が,公民館近くの交差点で自動車にひかれました」と知らせてきました。〇〇君はPTA役員の息子さんで,親子ともよく知っている子でした。
急いで現場へ向かうと,車を運転していた方は真っ青な顔をして,何度も私に謝っていました。まずはその方を落ち着かせ,救急車と警察を呼びました。同時にお母さんにも連絡しましたが,仕事中だったため電話はつながりません。

ほどなくパトカーと救急車が到着し,私は救急車に付き添って病院へ向かいました。車内では,救急隊員が何カ所かの病院に受け入れを依頼していました。しかし,「こちらでは対応できないので,ほかの病院を当たってください」というやり取りが続きます。その言葉を聞いているうちに,「思った以上に大きなけがなのではないか」と,だんだん不安になってきました。
何カ所かに連絡した後,ようやく総合病院への搬送が決まりました。救急隊員はその病院にも事故の状況や子どもの様子を詳しく伝え,ようやく搬送先が決まったことに,私も少しほっとしました。

病院に到着すると,玄関には看護師さんが2,3人,すでに待機していました。そして,救急車から降りようとした私の目に飛び込んできたのは,こちらへ駆け寄ってくるお母さんの姿でした。
驚いたことに,その子のお母さんは,その総合病院の看護師長だったのです。お母さんが看護師であることは知っていましたが,まさか搬送先が勤務先の病院だったとは知りませんでした。
私を見るなり,お母さんは「先生,ご迷惑をおかけしました。もう大丈夫ですので,先生はお帰りください。あとは私たちで対応しますから」と言われたのです。

その言葉を聞いて,私は少し戸惑いました。事故に遭ったのは大切な我が子です。もしかすると,私に対して何か思うところがあるのではないか。そんな考えが頭をよぎりました。私はそれ以上何も聞かず,職員に病院まで迎えに来てもらい,学校へ戻りました。
ところが翌日,お母さんが学校に来られました。そして,昨日のお礼を言ってくださいました。話を聞いて,私はようやく事情が分かりました。救急車から病院へ,事故の状況や子どもの様子が詳しく伝えられていたため,お母さんは病院に着く前から,わが子の状態をある程度把握していたのです。さらに,救急車から降りてきた子どもの表情を見て深刻な状態ではないことも分かり,落ち着いて対応できたそうです。その話を聞いて私もようやくほっとしました。
次回は,これらの事故が続いたのを受けて,新入児童への安全指導の取組について投稿します。
