住宅に住む理由
今回は,若い教員世代から敬遠される傾向にある「教職員住宅」について述べてみたいと思います。かつては教職員の生活を支える重要な役割を果たしてきた教職員住宅ですが,築40~50年を超える施設が増え,老朽化や入居者の減少などを背景に,近年は徐々に廃止されるようになってきました。
私が子どもの頃,父の転勤に伴って各地の教職員住宅で暮らしていた時代と比べると,交通網の発達や住宅事情の改善によって,教職員住宅の役割や意味合いは大きく変わってきました。
私自身が管理職になった頃には,この問題に頭を悩ませることが少なくありませんでした。特に管理職の単身赴任は,配偶者の重い病気など特別な事情がある場合を除いて,基本的には認められませんでした。私も高校生の子どもを自宅に残し,夫婦そろって離島へ赴任した経験があります。しかし,管理職になる四十代から五十代は,親の介護や子どもの進学,配偶者の仕事など,さまざまな家庭事情を抱える年代でもあります。そのため,家族が転勤先で同居できないケースは決して珍しくありませんでした。

実際に,せっかく教頭に昇任しても,家庭の事情から「教諭に戻ること」を選んだ先生方を何人も見てきました。特に子どもの県外の大学への進学が普通になると,教育費の負担は非常に大きくなり,共働きが欠かせない家庭も増えていきました。教職員住宅や管理職の在り方もまた,社会や家庭環境の変化とともに,大きな転換期を迎えていたのだと思います。
現在では,SNSなどを通じて現場の教職員の声が広く届くようになり,教職員住宅をめぐるさまざまな実態も明らかになってきました。それに伴って,県教育委員会の対応も少しずつ柔軟になり,単身赴任をしながら管理職を務める先生方も増えてきているようです。私たちの時代を振り返ると,時代が変わったものだと感じると同時に,羨ましく思うこともあります。
とはいえ,現状でもまだまだ課題は多いように思います。例えば県外に目を向けると,離島を除けば,そもそも教職員住宅そのものがほとんど存在しない地域も少なくありません。
かつて熊本市で開かれた研修会に参加した際,震度7を記録した地区の校長先生は他の市町村にある自宅から通勤しており,地震発生直後に道路が寸断され,しばらく学校の被害を確認することができなかったそうです。その話を聞いて感じたのは,「管理職は教職員住宅に住むべき」という鹿児島県の発想自体が全国的に珍しくなってきているのです。
近年は「教員不足」が大きな社会問題となっていますが,価値観が多様化した若い世代が教職員を選ばなくなってきているようです。勤務地や家族との生活を大きく制約される働き方は,ますます受け入れられにくくなっているように感じます。そう考えると,本県の教職員住宅や管理職の在り方をめぐる問題は,教員不足など近い将来ますます厳しい状況になっていくかもしれません。

住宅に住む「社会通念上の相当性」
もともと,管理職になったら必ず家族と教職員住宅に入らなければならないという明確な規定があったわけではありませんでした。しかし,平成に入って管理職の単身赴任が少しずつ増えてくると,現場の校長には単身赴任の実態調査や本人への指導,その報告まで求められる時代が長く続いていました。
私が管理職をしていた頃は,特にこの問題に悩まされることが多かったように思います。また女性管理職が増え始め独身の女性教頭が赴任すると,「教頭住宅で地域との懇親会が開けない」「地域になじみにくい」などと言われ,歓迎されないケースも見てきました。その一方で,既婚の女性管理職(校長・教頭)に対しては,男性管理職のように「夫婦で教職員住宅に住むべきだ」と強く求められることはありませんでした。そのため,男性管理職の中には,「男女で扱いが違うのはおかしいのでは」と感じる人もいました。
当時,県教育委員会が管理職の単身赴任に厳しい姿勢をとっていた背景には,地域社会からの強い要望があったからです。校長や教頭は夫婦で地域に住み,奥さんも地域行事にも積極的に参加することが当然だと考えられていました。そのため,「管理職は夫婦共に地域に根を下ろすべきだ」という声が,首長や教育委員会にも多く寄せられていたのです。
しかし,その後は親の介護や子どもの進学,配偶者の仕事など,家庭の事情が多様化しました。時代の変化とともに,管理職の居住や単身赴任に対する考え方も,少しずつ現実に合わせて変わっていったのだと思います。
教職員住宅の必要性
| 教職員住宅には,もともとそれなりの意義がありました。戦後間もない頃は深刻な住宅不足の時代で,特にへき地や離島では民間の賃貸住宅そのものが少なく,教員を確保するために教職員住宅が整備されました。また,当時は自家用車の普及率も低く,公共交通機関も十分ではなかったため,勤務校の近くに住めることは大きな利点でした。さらに,教員の給与も現在ほど恵まれておらず,家賃の安い教職員住宅は生活を支える重要な福利厚生でもあったのです。 しかし,時代の変化とともに,教職員住宅の意義も次第に薄れていきました。自家用車が普及し,道路事情も改善されたことで,多少離れた場所からでも通勤できるようになりました。また,近くに自宅を持つ教員にとっては,教職員住宅に入居すると,自宅との二重生活になり,経済的にも精神的にも負担になる場合がありました。 さらに,学校敷地内や隣接地に住む教職員住宅には,独特の悩みもありました。子どもたちや保護者との距離が近すぎるため,勤務時間外でも完全な私生活を確保しにくかったのです。子どもたちが遊びに来たり,「忘れ物をしたので学校を開けてください」と朝早く訪ねて来たりすることもありました。管理職住宅では,校長住宅と教頭住宅が隣同士に建てられていることも多く,常に職場の延長線上にいるような感覚になることもありました。 また,校舎から教職員住宅が見渡せる配置の学校も少なくありませんでした。そのため「今日はどこへ出かけるのか」「夜遅くまで電気がついていた」など,生活の様子が周囲から見えてしまうこともあり,常に見られているような窮屈さを感じることも少なくなかったのです。 学校で問題や災害が発生した際に,すぐ対応できるという利点はありますが,その一方で,休日や夜間であっても学校から完全に離れることはできませんでした。こうした負担感が,近年,若い教員の間で管理職を希望しない理由の一つになっているのかもしれません。 もちろん,豪雨災害や台風時の緊急対応,防犯上の見守りなどを考えると,学校の近くに教職員が住む意義が全くなくなったわけではありません。しかし,働き方改革やプライバシーの尊重が求められる現在では,「学校のために職場のすぐ近くで暮らす」という従来の考え方そのものが見直される時代になったように感じます。 教職員住宅は,戦後の住宅事情や交通事情の中で大きな役割を果たしてきました。しかし,その利便性と引き換えに,仕事と私生活の境界が曖昧になるという問題も抱えていました。時代の変化とともに,その役割を終えつつある制度なのかもしれないと,私は考えています。 |
ちょいとブレイク

校長住宅の怖い話
エピソード(1)
今から30年ほど前,私が教頭として地方の学校に赴任したときの話です。新聞発表の日の夜に,以前勤務していた学校の校長先生から電話がありました。「教職員人事異動」を見て連絡をくださったのです。「今度の異動で,先生と同じ町内の学校に私の後輩(Y)君が新任校長として赴任するようです。お会いしたらよろしく伝えてください」と頼まれました。
当時は,教職員の人事異動がテレビや新聞で大きく報道されていた時代でした。そのため,異動が発表されると,保護者だけでなく,遠方の親戚や学校関係者,友人たちからも次々と電話があり,励ましの言葉をいただいたものです。
教職員の人事異動は,本人だけでなく,多くの人たちが関わる出来事でした。送り出す学校も迎え入れる学校も,そして地域の人たちも大きな関心を寄せていました。今のようにインターネットやSNSが普及していない時代でしたが,その分,人と人とのつながりの温かさを感じる機会が多かったように思います。
そして,そのY校長先生とは意外にも早くお会いすることになりました。多くの市町村で始業式や入学式が終わると,市町村教育委員会主催の「転入教職員宣誓式」が行われ,その後には校長や教頭,教育委員会関係者が集う懇親会が開かれるのが恒例でした。
当日は,転入職員の紹介が終わると懇親会が始まり,会場は次第に賑やかになっていきました。私もさっそく,以前お世話になった校長先生から紹介されたY校長先生のところへ挨拶に伺いました。無事に挨拶を済ませたのですが,そのY校長先生と隣におられた教頭先生は,どうやら先ほどまで何か深刻な話をされていたようでした。そして私は,思いがけず,その話を耳にすることになったのです。今でも忘れられない話でした。
その話は,校長住宅で起きた出来事についてでした。教頭先生によると,そのY校長先生の前任者の奥様が,在職中に亡くなられたというのです。
奥様は,公民館活動や地域の方々との人間関係に悩むようになったそうです。当時の校長住宅は学校敷地内にあり,校舎からも生活の様子が見えてしまう環境でした。そのため,精神的な負担が次第に大きくなっていったのではないかとのことでした。
当時は「ノイローゼ」と呼ばれていましたが,今で言う心身症や適応障害のような状態だったのかもしれません。心身の不調が続く中で,室内にいくつかの人影(霊)のようなものが見えると話されるようになり,そのことが周囲にも広まってしまったそうです。田舎特有の人間関係や噂話によるストレスも重なり,さらに追い詰められていったのでしょう。奥様は最終的に住宅で自ら命を絶たれたとのことでした。
そのため,新しく赴任されたY校長先生も,数か月後にその校長住宅へ入居した際には,複雑な思いを抱かれたそうです。また,教頭先生は「この学校の敷地は江戸時代には墓地だったと聞いている」とも話されていました。
私は霊感というものは全くありませんので,その感覚はよく分かりません。ただ,霊感が強いと自覚している方の話を聞くと,大変な思いをされることもあるのだろうと感じます。今振り返ってみても,教職員住宅というものが,時として仕事と私生活の境界を曖昧にし,人を精神的に追い詰めてしまうこともあったのではないかと考えさせられる出来事でした。
ドクターヘリ
それから数か月後のある深夜,私が住んでいた教職員住宅の上空を,ヘリコプターがものすごい轟音を響かせながら通過していきました。夜中にヘリが飛ぶこと自体が珍しく,「何かあったのだろうか」と思いながら,そのまま眠りにつきました。

翌朝,校長先生から,隣の学校のY校長先生が急性大動脈解離で亡くなられたことを聞きました。昨夜,私の住宅の真上を飛んでいったヘリコプターは「ドクターヘリ」で,Y校長先生を鹿児島市内の病院へ搬送するためのものだったのです。
話によると,Y校長先生は激しい背中の痛みを訴え,地域の病院(校医)を受診されたそうです。しかし,その時点では異常は見つからなかったといいます。急性大動脈解離は,一刻を争う危険な病気である一方,診断が難しい病気としても知られています。確定診断にはCT検査などが必要で,専門医や設備の整った病院への迅速な搬送が欠かせませんが,当時,その地域には十分な医療体制が整っていませんでした。

後になって,「もし最初の受診時に詳しい検査ができていれば,助かった可能性もあったのではないか」と語る人もいました。Y校長先生は,住宅に戻られた後に容体が急変し,救急搬送の後,ドクターヘリで鹿児島市内の病院へ向かわれましたが,帰らぬ人となってしまいました。
深夜の静寂を破って飛び去ったドクターヘリの轟音を思い出すたびに,私は今でもY校長先生のことが蘇ります。そして,地方における救急医療体制の難しさと,人の命のはかなさについて,改めて考えさせられるのです。
※ 次回はこの教頭先生もこの後,直ぐに亡くなってしまう話です。
